開演を待ちながら

2002年から京都芸術大学 舞台芸術研究センターで刊行している機関誌『舞台芸術』をはじめとする京都芸術劇場/舞台芸術研究センターのアーカイブの中から、おすすめコンテンツを選び出して掲載しています。自宅で、電車のなかで、そして、劇場のロビーや客席 で、少し時間のあいた時に、ぜひご覧ください。市川猿之助、観世榮夫、太田省吾etc…

『舞台芸術』20号(2017年4月発行)特集:〈2020年以後〉の舞台芸術 より

f:id:shunjuza:20200521122254j:plain舞台芸術』20号(特集:〈2020年以後〉の舞台芸術)に掲載された四代目市川猿之助氏のテキストを掲載いたします。このテキストは2016年9月24日(土)京都芸術劇場 春秋座で行われた猿翁アーカイブにみる三代目市川猿之助の世界』における四代目市川猿之助氏の講演を採録したものです。
四代目市川猿之助(いちかわ・えんのすけ)歌舞伎俳優

 

 

 

 現在こうして歌舞伎界があるのは三代目猿之助の功績が大きいと思っています。

 スーパー歌舞伎が始まったのが1986年(昭和61年)でした。1作目は『ヤマトタケル』で、当時、ドル箱の芝居と言われ、観客動員率は100パーセントを超えていました。最初は2か月のロングラン公演だったのですが、その年のうちに秋のロングランが決まったと聞いています。この時は観られないお客さまが大勢いるからと、江戸時代の芝居のように上演中に年内再演が決定しました。

 衣裳は毛利臣男さん、音楽は長澤勝俊さん。長澤さんは日本音楽集団創立者です。ご存じのように日本の音楽には指揮者はいません。立三味線なり鼓が芯となるのですが、日本音楽集団は指揮者がいて和楽器の演奏をするというスタイルです。そして舞台美術は朝倉摂さんが手掛けました。何よりも現代語で歌舞伎をやろうということで始まりました。

 当時、私は小学生でしたが、1回だけお稽古場をのぞいたことがあります。もうなくなったのですが、東京にあるベニサンピットという染物工場だった場所を小劇場とお稽古場として貸し出していまして、そこでお稽古をしておりました。子供心に覚えておりますのは、普通、歌舞伎のお稽古は着物でやるのですが、みんな洋服でいることです。そこに1か月間詰めて朝までお稽古をしていました。毎日、父親が帰ってこないので、どうしたのだろうと思って聞いたら、「毎日、夜中まで稽古をしているのだよ」と言われた記憶がございます。

 舞台は昼夜2回公演。スーパー歌舞伎はカーテンコールで出演者全員が並ぶんです。歌舞伎にはカーテンコールはないんです。それに普通の歌舞伎公演ですと自分の出番が終わったら帰れるのですが、この舞台は最後に全員で揃ってカーテンコールをするんです。役者にとっては非常に迷惑ですね(笑)。

 市川段之という澤瀉屋の弟子に聞いたところ、昼と夜の部の間の時間が1時間もない。しかも衣裳さんの数も限られていますから、昼夜の間に「出演者の方々にご連絡申し上げます。これとこれの役の人は衣裳を脱がないで、そのまま序幕に回っててください」という放送が楽屋に流れるんだそうです。ですから、みなさんお行儀が悪いですけれど、衣裳を着たまま仮眠をして、ご飯を食べる。仮眠といっても、みなさん疲れていて起きていられないんです。そういう状態でスタートしたスーパー歌舞伎でした。

 その次は『リュウオー・龍王』、『オグリ・小栗判官』、『八犬伝』、『カグヤ』、『オオクニヌシ』へと続いていくのですが、石川耕士さんの話にもありましたように、初めに物を作るというのは非常にたいへんで、まず、お稽古をどうやって進めていいのかわからなかったのだそうです。

 歌舞伎以外の新劇の場合は、毎回、初めて顔を合わせる役者さんやスタッフさんが多く、私の場合でいいますと、先日、亡くなられた蜷川幸雄さんの『元禄港歌―千年の恋の森―』に出演いたしましたが、宮沢りえさんや段田安則さんと「はじめまして」と顔を合わせてから1か月間稽古をします。この間、大事なのは俳優同士が仲良くなるということです。それが一番大事。それから、いろいろな畑の人がいるわけですから、共通言語を見つけること。それに1か月かかるわけです。

 ですが歌舞伎では、だいたい生まれてから死ぬまで相手は一緒ですから、会えば相手が何を考えているかわかるわけです。「こうしてほしい」と言われれば、「あ、この人はこうしてほしいのだな」ということがわかる。ですから余計な会話がない分、お稽古の期間が短くなり、だいたい稽古期間は5日間です。それは興行の都合もありまして、各小屋の千穐楽を待つと全員が揃うのが5日間しかないんです。これは伝説なのかもしれませんが、曾祖父の頃、六代目菊五郎や初代吉右衛門の頃は、朝、スーツで劇場に来て「お前ここ、こうやるな」「うん」「おれ、こうやるからな」「じゃあ、こうやって」「うん。じゃあ」って、5分で『寺子屋』の稽古が終わるという。それぐらい練られていたのです。しかし、スーパー歌舞伎というのは初めての挑戦ですから、どうやって稽古をしたらよいのかわからない。

 第一に苦労したのは音楽だと思います。歌舞伎は下座で生演奏しますから、役者が歩いて止まるまで塩梅をしてくれるのです。10秒で歩く日もあれば、20秒の日もあるのを演奏で調整してくれる。スーパー歌舞伎は録音ですから、音に動きを合わせなくてはいけない。そこで稽古のうちに全部、動きを決めておく必要があるんです。ここからそこまで歩くのに10秒と決めたら、10秒の曲を作ってもらうわけです。そうすると動きは、どんなことがあろうと必ず10秒にしなくてはいけない。

 できあがってきたもので稽古をしている間に、動きが短くなってしまう場合もある。そうしたら音声さんが音楽を聞きながらテープに印をつけて、ハサミで切ってつなぐわけです。切ったテープは捨てますが、今度は演出家がやはり長くしようと言う。そうするとつなげないですから、録音し直しです。そのように、ものすごい苦労をしたそうです。

 それから、すっぽんの問題もあります。すっぽんも壊れることがあります。僕らは「つなぐ」と言うのですが、生演奏の場合は「すっぽんが壊れたからつないで! 」と言うと、狂言さんが黒御簾に走って行って「今、アクシデントですから音でつないでください」と言えるんですが、テープではつなぐことができません。ジャンジャンジャン! で終わったら音は何もない。

 それから照明。歌舞伎は手動でピンスポットを当ててくれますが、スーパー歌舞伎バリライトというコンピューター制御の照明も使ったんです。まだ日本に限られた台数しかないときに、『オグリ・小栗判官』で使ったんです。本当はロックコンサートや松任谷由実さんなど第一線で活躍している人のコンサートのために入れたライトなのですが、『オグリ・小栗判官』で全部、使ってしまったものですから、スーパー歌舞伎をやっているときは日本中のバリライトが歌舞伎に持っていかれたと文句が多かったと聞いています。

 あれはコンピューター制御ですから、ここからそこへ三秒で移動する、などと打ち込むわけです。ですからちょっとでも行き遅れると光が当たらない。光に合わせて芝居をしなくてはいけないので、役者にストレスがあるんです。役者はお客さんに乗せられると、たっぷりやりたいと思うのに音楽が終わってしまいますし、ライトの問題もある。すごく外側に制約され、役者の中でも葛藤があったそうです。

 衣裳の毛利さんは素晴らしいデザイン画を描かれるのですが、歌舞伎で着る衣裳というのは、腰に重心がくるようになっているんです。たとえば揚巻の衣裳は、どんなに重くても腰で支えるようになっています。毛利さんはお洋服なので、重心が肩にくるんです。それが、ありえないぐらいの重さなんです。何十キロですから。それで、みんな非常に肩が凝る。また、ロングラン公演というのもやったことがない。今では考えられないのですが、2週間昼夜ぶっ通しで1日の休みもなくやった。毎日、2回、2回、2回と、最初はできると思ったのです。そのうち倒れる人が出てくるわ、声が出なくなる人がいるわで、たいへんだったそうです。

 私が初めてスーパー歌舞伎に出させていただいたのは、『八犬伝』です。忘れもしません、湾岸戦争のときでした。美術はドイツの方で、通常はオペラをされていました。舞台には鏡を鉄骨に取り付けてあって、油圧で鏡が回転します。歌舞伎の舞台は普通は板ですが、プラスチック板の光る床でした。このときも、やったことのない試みで、一から作るわけですから、どうなるかわからない。

 通し稽古は朝11時から始まりました。

 1幕1場は洞窟の絵を描いたパネルで、幕が開いてパネルが割れて光が射すというシーンでした。私の出番は2幕目だったので、出番は昼過ぎだろうと思って劇場に行ったら、まだ1幕1場をやっている。パネルが開いて光が射すだけです。結局、そのシーンに3時間ぐらいかかったんです。

 私は2幕目の最初と最後だけ出ていたのですが、2幕目が始まったのは夜でした。それで、「出番になったら連絡ください」と言って、いったん帰りました。電話がきたのが朝方で、「今から1時間後にかかります」という。それで2幕目のテクニカルリハーサルが終わったのが、朝の5時頃でした。そのような苦労を経て、初日が幕を開けました。

 それから『新・三国志』『新・三国志Ⅱ・孔明篇』『新・三国志 Ⅲ・完結篇』の3部作。歌舞伎役者は若いときにいろいろな役をやります。三代目も業績を見ていただくとわかりますが、スーパー歌舞伎ばかりをやっているわけではなくて、若い頃は、ものすごい数の古典をやっているんです。そういう基礎があるから応用編ができるわけです。

 僕は、そういう多感なときにスーパー歌舞伎を中心にやっていたので、武者修行ということで劇団を離れました。それでいろいろな所へ行って古典を勉強しました。その後、数年を経て、襲名の話が伯父の口から出てきたわけです。

 三代目が素晴らしいのは、古典もスーパー歌舞伎も両方できたということです。なので、「襲名興行で昼に古典、夜にスーパー歌舞伎をやらせてください」とお願いをしました。そうしたら「やったことがない」と言われましたが、「やったことがないのをやるのが、猿之助なので、やらせてください」と強くお願いをしました。

 みなさまのおかげで、6月には『義経千本桜』と『ヤマトタケル』を、7月には『黒塚』と『ヤマトタケル』をやらせていただいたのですが、初日が開いたとき、言わなければよかったと思いました(笑)。体力的にも精神的にも、かなりハードでした。これを淡々とやっていた三代目はすごいなと、ある意味おかしいんだなと、この世の人ではないな、すごい生命力をもった猛優なんだなと思いました。

 時代とはすごいなと感じたのは、どんなに初演で新しいといわれた『ヤマトタケル』でも、もちろん今でもものすごく新しいと思うところもありますが、時代に即していた分、たいへん古いと思うところもあることです。そこを石川耕士さんやみなさんと相談して変更を加えたり、カットしていきました。

 猿翁の伯父は、公演のつど演出を変えますから、『ヤマトタケル』でも上演のたびに変えるんです。しかし、僕の感覚からすると、どうしても初演に戻したい部分もあるのです。三代目が育ったのは古典が全盛の時代ですから、どうしても古典から離れようとする部分がある。ですが、僕らは亡くなられた勘三郎さんをはじめ、どんどん歌舞伎界に新しいことが採り入れられた時代です。 そうすると逆に僕らの世代は、今度は古典が新しく感じられるんです。

 初演の方が古典に近いので「初演に戻したい」と言うと、三代目は反対です。「せっかく僕が新しくしたんだから、新しくやってほしい」と。でも時代というものがあります。例えば、明治には、ハイカラさんで、文明開化で、古いものを否定しましたが、そういう時代が続くと今度は古いものが新しくなってきます。古いものが新しいというのは、時代の流れだと思います。

 伯父のスーパー歌舞伎の進化形であり、四代目猿之助のテイストを加えたのがスーパー歌舞伎Ⅱです。第1作は前川知大さん作の『空ヲ刻ム者』でした。その第2作目として、『ワンピース』 をやりませんか、という話をいただきました。僕は、がむしゃらにやりたいという方ではなくて、縁というものがあってくるときがきたら、それは何かあるのだなと思います。無理を通せば道理が引っ込みます。蝶がくるときに花が開く、花開くとき蝶きたるというような不即不離の関係ですので、これも縁だと思いました。伯父の世代はアニメがこんなに力をもっていませんでした。でも今の時代、アニメというものはものすごい力をもっているんですね。

 そして技術も時代とともにいろいろと変わっています。便利になったと思ったのは音楽です。昔はスタジオを借り切って生で音を入れる方法しかなかったのですが、今は音色を入れればコンピューター上でも打ち込みができるんです。作曲をしてくれたのは藤原道山さん(尺八演奏家、作曲家)です。現場から道山さんに電話をして「ここをこうしてほしいんです」と言うと、10分後ぐらいにメールで音楽ファイルが送られてきて、すぐに聞ける。これがすごく便利でした。テクニカルリハーサルが終わるのが夜中の2時で、それから道山さんに電話をして「ジャンジャンジャン」じゃなくて、「ジャン、ジャン、ジャン、ジャン、ジャンと2個足して下さい」と言うと、数分後に送られてくる。あと2秒足りないと言うと、また足して送ってくれる。テンポを変えたいというと、テンポを変えるソフトに入れるとすぐに変えられる。

 昔は全部の楽器を一斉に演奏して録音しましたが、今は楽器ごとに録音して音を合わせるので、例えば後で、お琴だけいらないとなれば、お琴の音色だけ消すことができる。とにかくデジタルなんです。照明もそうです。かつて地獄の照明合わせといって、2日間ぐらいかかりましたが、今はパソコンですから、すぐに終わってしまう。時代の移り変わりとともに作り方も変わってきました。

 稽古の方法などを伯父がものすごく苦労して工夫してくれたので、新作でも無駄なことに時間を使わなくてよくなっていました。困ったのは、言葉ですね。『ヤマトタケル』では、どこまで現代語にするか非常に困ったそうです。「さようなら」というのか 「さらば」と言うのか、「ありがとう」と言うのか「かたじけない」と言うのか。それに加えて『ワンピース』にはキャラクター設定がありますから、ちょっとでも「てにをは」が違うと「ルフィは、そういうことは言いません」「語尾はこう言ってください」となる。そうすると今までの歌舞伎の手法では処理しきれないんです。

 それでも、知恵を絞って歌舞伎のどの手法を応用して処理しようかと考える、そんなとき、力強いと感じたのが三代目の仕事のハウツーを、右近さんをはじめ、みんなが傍で見ていたことですね。三代目の薫陶を受けた人たちがたくさんいらっしゃる。専門家がズラッといるわけですので、問題が起きるとパッと集まって、「これこれこれで、こうしよう」とあっという間に解決するのです。そういうのを坂東巳之助くんとか中村隼人くんとか、澤瀉屋の芝居に初めて参加する人たちが見て、びっくりするんですね。自主的に集まってきて5分ぐらい話し合ったかと思ったら、もう問題が解決されている。それはなぜかというと、同じ方向を見ているからです。このように人材を育成したということが、三代目の最大の業績だと思います。

 今度、『ワンピース』の再演があります。時代の進歩はすごいですね。また新たな技術を採り入れて上演します。『オグリ・小栗判官』のとき、全面に鏡を使ったのですが、三代目は本当はそれを全部テレビでやりたかったそうです。ですが予算を出したら何億とかかることがわかって諦めたそうです。ですが、LEDの登場により、それが可能な時代になった。三代目が30年前に考えたことができるようになった。そういうものをどんどん採り入れていきたいと思います。

 

 

市川猿之助/四代目(いちかわ・えんのすけ)
1975年四代目市川段四郎の長男として生まれる。83年歌舞伎座御目見得太功記・戻駕色相肩』禿たよりで二代目市川亀治郎を名乗り初舞台。2012年「二代目猿翁 四代目猿之助 九代目中車襲名披露公演」において、四代目市川猿之助を襲名。2002年京都芸術劇場春秋座にて第一回「亀治郎の会」を開催。13年5月春秋座芸術監督に就任。近年は、スーパー歌舞伎Ⅱ『ワンピース』、『東海道中膝栗毛』、スーパー歌舞伎Ⅱ『新版 オグリ』では演出も行う。立方・女形を兼ねる役者として歌舞伎のみならず広く舞台に出演。2008年芸術選奨文部科学大臣賞新人賞、2013年第34回松尾芸能賞優秀賞、2016年第51回紀伊國屋演劇賞個人賞、2017年第24回読売演劇大賞男優賞を受賞。
 

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