開演を待ちながら

2002年から京都芸術大学 舞台芸術研究センターで刊行している機関誌『舞台芸術』をはじめとする京都芸術劇場/舞台芸術研究センターのアーカイブの中から、おすすめコンテンツを選び出して掲載しています。自宅で、電車のなかで、そして、劇場のロビーや客席 で、少し時間のあいた時に、ぜひご覧ください。市川猿之助、観世榮夫、太田省吾etc…

『舞台芸術』20号(2017年4月発行)特集:〈2020年以後〉の舞台芸術 より

 

f:id:shunjuza:20200520172020j:plain舞台芸術20号(特集:歴史と2020年以後〉の舞台芸術)に掲載された田口章子氏のテキストを掲載いたします。
田口章子(たぐち・あきこ)歌舞伎研究

 

 

1 スーパー歌舞伎


(1)「私の歌舞伎人生そのもの」

 2016年(平成28年)5月29日、三代目市川猿之助(二代目猿翁)から、映像、書籍、公演パンフレット、台本、写真、ポスターなどおよそ二万点の歌舞伎にまつわる所蔵資料が京都芸術大学に寄贈された。


  

  今回寄贈しましたものは、私の歌舞伎人生そのものです。今後これらの資料が歌舞伎の世界だけではなく、広く舞台芸術の歴史の一部として後世の参考になりましたら、大変嬉しく思います。

 


 これは、寄贈の翌日に開いた記者発表会の会場に寄せられた三代目猿之助のコメントである。

 「私の歌舞伎人生そのもの」とコメントを寄せた三代目猿之助がめざし、成し遂げたものは何だったのか。猿之助が創演した「スーパー歌舞伎」を取り上げて考える。

 明治以降、歌舞伎の革新運動を行った役者といえば、九代目市川團十郎、二代目市川左團次、そして三代目市川猿之助の三人をあげることができる。團十郎は「活歴」を、左團次は「新歌舞伎」を、猿之助は「スーパー歌舞伎」を創造した。

 三人に共通しているのは、歌舞伎を生きた演劇=当代劇としてとらえ、常に歌舞伎の「今」を求めていることである。

 

  團十郎 「改良は昔からあることで、これは自然の変化である。時勢に適応しないで旧株のみに寄ることは愚かなことだ。」(『ダンス百話』)

  左團次 「日本には現在の演劇というものはない。時代に立つ演劇、時代の喜びを喜び、時代の苦しみを苦しみ時代に訴え、時代を導く演劇は必要。」(『左団次技談』)

  猿之助 「伝統を受け継ぎながらもその時代その時代の大衆に支持を得るためにいろいろな趣向や工夫を施して生き続けることである。」(『猿之助修羅部隊』)

 

 歌舞伎は、「かぶく(傾く)」という動詞の連用形が名詞化して生まれたもので、新しい傾向をもつという性質がある。そういう意味からすれば、活歴・新歌舞伎・スーパー歌舞伎はみごとに歌舞伎たりえている。

 相違点は、九代目團十郎と二代目左團次が、江戸時代の歌舞伎を否定し合理性を追求したのに対し、三代目猿之助は、江戸時代の歌舞伎を求めて、近代を超えようとしたところにある。

 

(2)歌舞伎の新作とはなにか

 スーパー歌舞伎は三代目市川猿之助の「歌舞伎の新作とはなにか」という問いかけからスタートした。今の時代の主義主張にぴったりくる「歌舞伎の要素を活かした新・新歌舞伎」である。

 猿之助は、九代目團十郎と二代目左團次が、「歌」(音楽性)・「舞」(踊り=視覚性)なしの「伎」(演技=演劇性)だけのリアリズム中心のせりふ劇をめざしたとし、切り捨てられたせりふを歌う「歌」(音楽性)と、振りで表現する「舞」(踊り=視覚性)を意識的に導入したいと考えた。これが発想の原点だった。

 スーパー歌舞伎は、哲学者梅原猛との出会いによって誕生した。新歌舞伎の『一本刀土俵入』(長谷川伸作)をみた梅原が「(感動できて)いい芝居だけれど、楽しくないね」といい、一方、古典歌舞伎を「歌(音楽)・舞(舞踊)・技(芝居)の三要素で構成されていて(中略)楽しいけれども、忠君愛国、義理人情という江戸時代の倫理観・世界観・道徳観などをテーマとして書かれているから、現代人にはどうもぴんときにくい。(中略)新歌舞伎が提唱してきた現代人の感動できる物語を、江戸時代の歌舞伎が培ってきた素晴らしい要素(美意識・発想・演技術・演出法)で作り上げなければならない)(『夢見る力 スーパー歌舞伎という未来』)というところからはじまった。

 数々の苦難を乗り越えながら生きてゆく『古事記』の英雄ヤマトタケルを主人公に描いた梅原猛作『ヤマトタケル』ができあがった。1986年(昭和61年)2月、「歌舞伎であって歌舞伎を超えたもの」という意の「スーパー歌舞伎」が『ヤマトタケル』に冠せられると、新橋演舞場で幕を開け、中日劇場、京都南座など主要都市の劇場で2年間に380回繰り返し上演された。1995年(平成7年)、1998年(平成10年) の再演を加えれば、上演回数は564回ということになる。

 2005年(平成17年)を3月・4月に新橋演舞場で、5月には大阪松竹座で、猿之助一門である市川右近(三代目市川右團治)、市川段治郎(二代目北村六郎)のダブルキャストによって『ヤマトタケル』が上演された。タケル役に扮した右近は「骨太の脚本に、師の猿之助が歌舞伎のさまざまな演出術を駆使して作りあげた作品。初演から19年たち、いま古典となりえたと確信しました」(「産経新聞」2005年4月26日夕刊)と実感を込めた発言をしている。『ヤマトタケル』初演の三年後、1989年(平成元年)には第2作『リュウオー』(絽瑞 昭・仲昭佐作)、1991年(平成3年) には『オグリ』(梅原猛作)、1993年 (平成5年)『八犬伝』(横内謙介脚本)、1996年(平成8年)『カグヤ』(横内謙介脚本)、1997年(平成9年)『オオクニヌシ』(梅原猛作)、1999年(平成11年)『新・三国志』(横内謙介脚本)、2001年(平成13年)『新・三国志Ⅱ―孔明篇』(横内謙介脚本)、2003年(平成15年)『新・三国志Ⅲ―完結篇』(横内謙介脚本)と、猿之助は17年間で 全9作のスーパー歌舞伎作品を創りあげ主演している。制作費もすごかったが、観客動員数で目をみはる興行成績を収めている。

 

2 伝統歌舞伎の可能性の限界突破

 

(1)基本は「3S」

 三代目猿之助は、古狂言の復活通し上演、古典の新演出、新作の創造を本柱に演劇活動を行ってきた。

 古狂言の復活通し上演というのは、江戸時代に上演されそのまま埋もれていた芝居を、現代の観客にアピールするように工夫を加え復活、再創造を試みたもの。『加賀見山再岩藤(骨寄せの岩藤)』、『魅紅葉汗顔見世(伊達の十役)』などである。古典の新演出は、江戸時代以来上演されている古典作品を新しい見せ方で演じるもので、『義経千本桜』や『攝州合邦辻』などである。新作の創造というのがスーパー歌舞伎である。これらの作品は澤瀉屋家の芸「猿之助四十八撰」として集大成されている。

 三代目猿之助が創造したスーパー歌舞伎の果たした意義は何かといえば、伝統歌舞伎の可能性の限界を突破したということである。

 芝居作りで三代目猿之助が大切にしたのが「3S」、STORY(物語)とSPEED(速度)とSPECTACLE(視覚性)である。物語のわかりにくさが難点とされる現行歌舞伎の欠点を、筋立てを起承転結のはっきりしたわかりやすい構成にし、初心者でも楽しめるものを心がけ、テンポが遅くて退屈であるという観客の声に耳を傾け、メリハリのあるテンポを意識し、理屈抜きで楽しんでもらえるように宙乗りや早替りなどの視覚的な見せ方を念頭に舞台を創ってきた。

 「3S」を盛り込んだ芝居作りの積み重ねの上に新作の創造として、スーパー歌舞伎の創演が実現したことはいうまでもない。

 三代目猿之助は伝統歌舞伎の可能性の限界をどのように突破したのか。脚本、演出、演技について具体的に見ていこう。

 

(2)脚本

 スーパー歌舞伎の脚本は『古事記』『日本書紀』などの誰もが知っている日本の古典物語や『三国志演義』などの中国の古典から題材をとり、現代人を感動させるためのテーマ性のある物語作りをめざした。作品にはそれぞれ、スーパー歌舞伎の作者である梅原猛横内謙介らとともに猿之助が設定したテーマをあらわすキーワードがある。『ヤマトタケル』は「天翔(あまか)ける心」。「ロマンの病」をキーワードに魂の救済を求めてさまよう若者を主人公にした『オグリ』のテーマ は「一期一会の出会い」。遊行上人のせりふ「人は縁によって出会い、縁によって別れるもの。我らの命はたまゆらの命、念仏を唱えて極楽往生を願おうぞ」に精一杯生きようというメッセージを込めている。『オオクニヌシ』のキーワードは「高き志」である。戦を回避するために闘わずして国を譲ったオオクニヌシの自己犠牲にみる潔い決断と崇高な魂を描き出そうとした。

 「八人の犬士が邂逅し、里見家のために尽力するという『八犬伝』は「思いの絆」。キーワードの「融合」がテーマである。二一世紀を融合の時代ととらえ、八犬士が集まってくる物語を一つのこころへの融合というテーマでとらえたものだ。『カグヤ』は「輝く心」をキーワードに「帝とかぐや姫の宇宙を翔ける恋。太陽と月と地球をつなぐ壮大なロマン」をえがき、「皆さんも永遠に輝きましょう」というメッセージをおくった。三作までシリーズ化された『新・三国志』のキーワードは「夢みる力」。「夢を追い続ける姿にこそ夢がある」というテーマは統一されている。

 スーパー歌舞伎ではカーテンコールが行われる。たとえば、『新・三国志I』のカーテンコールで死してなお、生きてなお、老いてなお夢に向かって歩み続ける人々の行進をみせたのは、「夢みる力」のテーマを伝えるためである(『スーパー歌舞伎! ものづくりノート』)。スーパー歌舞伎で行われるカーテンコールは、メッセージを客席にむかって投げかけるセレモニーとして重要な演出であった。

 歌舞伎の持つ様式的な面白さとテーマ性のある内容という二つを獲得することで、江戸時代以来の歌舞伎と近代以降の歌舞伎を融合させ、独自の新しい歌舞伎の世界を創りだした。

 

(3)演出

 猿之助歌舞伎という演劇運動において、三代目猿之助は主演と演出家を兼ね、照明、舞台装置、衣裳、音楽、ときには舞台美術に至るまで自ら演出家としての目をひからせる。

 1966年(昭和41年)、江戸時代の歌舞伎には存在しなかった「演出家」を、三代目猿之助は自主公演第一回春秋会『太平記忠臣講釈』で歌舞伎史上はじめて名乗る。

 

  現行演出を金科玉条として、変えると歌舞伎の良さが失われるのではないかと言う人もいますけれど、いろいろなやり方が無限にあるのに勿体ないと思います。それを役者が全然考えないのは役者が演出家の眼をもたないからで、これは非常に良くない。もともと役者がイコール演出家でいろいろな試みをした。それがなくなって来たところから、どうも歌舞伎は本来の歌舞伎とは違って来たように思います。(中略) 歌舞伎の発想だとか演出だとか、要は切り口の問題です。(『市川猿之助の仕事』)

 

 三代目猿之助が「演出家」を名乗った理由である。

 江戸時代は、役者が自身の演技の演出家であり、演出家の目を備えた個々の役者が自分の演技を持ち寄って芝居を創りあげていった。江戸時代以来の「役者がイコール演出家」としていろいろな試みをしなくなったことで、歌舞伎が面白くなくなったというわけだ。三代目猿之助の演劇運動は、役者の持てる演出能力をすべてに行き渡らせるという試みでもあった。

 

照明

 スーパー歌舞伎に演出家猿之助が導入したのは近代照明だった。照明家の吉井澄雄が担当した。自然光とローソクだけで芝居をしていた江戸時代、ガス灯やアーク灯による照明の時代をへて明治末期から電灯照明が普及した。現代の歌舞伎照明の基本は舞台全体に自然光に近い白いあかりをつけっぱなしに照らすが、あえてフラットな歌舞伎の照明とは違う新しい照明技法を採用した。

江戸時代、文化文政期(1804〜30年)に早替りや仕掛けで観客をあっといわせた歌舞伎作者、鶴屋南北が現代に生きていたら採用したに違いないという発想が決断させた。

 照明器具も劇場付属のものとは別に、ライトを40個ずつ二列に上から吊るしたライト・カーテンを効果的に使った『ヤマトタケル』、100台以上ものバリライトの動きをコンピューターに打ち込んでみせた『オグリ』や、光る玉が飛ぶさまをレーザー光線で表現した『八犬伝』などなど、いままでの歌舞伎が手をつけなかった分野への挑戦であった。

 役者を、舞台装置を、照明の手法を用いて演出するという方法は、歌舞伎の新しいみせかたを提案した。

 

舞台装置

 近代照明を導入すれば、舞台も変わる。従来の平面的な舞台作りではなく、立体的に作るという考え方で舞台が作られた。

 歌舞伎とは無縁の人たちを猿之助は指名した。朝倉摂(『ヤマトタケル』『オグリ』)、赤羽宏郎(『リュウオー』)、ハンス・シャーヴァノッホ(『八犬伝』)、金井勇一郎(『カグヤ』『オオクニヌシ』『新・三国志』)らが、猿之助の演出プランを形にするための舞台装置を考案した。

 例えば、『オグリ』の舞台三面をハーフミラーの壁で囲った舞台背景。舞台上にリアルなものを出したくないという能楽を念頭においた演出方針から発想された。「鏡コロス」とよばれる鏡を持つ黒衣姿の後見部隊が縦横に活躍して変幻自在な空間と時間を創りだす鏡の装置や、『八犬伝』のコンピューターを駆使した七二枚の回転する鏡を組み立てた舞台装置は、照明効果とあいまって夢幻的な空間を創りだした。

 

舞台衣裳

 歌舞伎のなかで視覚的な美しさを発揮する舞台衣裳。歌舞伎の衣裳は歴史考証にとらわれないで美意識を優先する。『妹背山婦女庭訓』が古代の話であるにもかかわらず、江戸時代の風俗衣裳で演じられていた。そういう発想に注目し、衣裳デザインは、当時、三宅一生の右腕といわれた毛利臣男を起用。

 猿之助は『ヤマトタケル』の衣裳について、「歌舞伎の美意識にのっとって、女は補福(うちかけ)、男 は着物に袴」という条件付きで「衣裳だけ見ていてもファッションショーとして楽しめるもの」という注文を出した。この方針はスーパー歌舞伎の全作品において踏襲された。『ヤマトタケル』では総登場人物延べ一90人、280点の衣裳を制作。衣裳に力を入れていたことは、衣裳費が総製作費の一割を占めるという事実からもうかがい知ることができる。

 

音楽

 文楽三味線演奏家鶴澤清治、鳴り物の藤舎呂船の作曲による古典の音楽に加え、邦楽器で現代音楽を創作する長沢勝俊、加藤和彦に作曲を依頼し、それを生演奏ではなく、録音テープで行う。

 琵琶、和太鼓、笛、太棹三味線などの和楽器や新邦楽オーケストラのほかに、洋楽器のオーケストラによる演奏をシンセサイザーに打ち込んで作るという新しい音を導入している。

 猿之助が演出家としてのプランを出す。『ヤマトタケル』の場合、「聖宮」は中国の古代音 楽、「明石の浜」は義太夫と琵琶、「熊襲の新宮」は和太鼓と笛、「走水」は文楽三味線、「夢」はお経、ラストの場面は謡曲でという注文の仕方である。

 

  たいていの新作は音楽をBGM、つまり雰囲気描写としてしか使っていない。だが古典歌舞伎の下座音楽はすべて役者に付いていて、動きもせりふも喋るテンポも音楽に規制されるほど演技と切り離せないものなのだ。(中略)従来の新作が忘れていた「歌」と「舞」を復活させたいというのが新・新歌舞伎つまりスーパー歌舞伎の第一のテーマであったから、ただのBGMでは意味がない。(『スーパー歌舞伎―ものづくりノート』)

 

 猿之助はただのBGMではなく、歌舞伎の手法を採用している。

 

(4)演技

 生演奏ではなく録音の音を採用したことで、動きやせりふのテンポは束縛された。「間」は 「魔」に通じるといわれ、歌舞伎は「間」を大切にする。録音によって束縛された身体に「間」を活かした演技を行うことを試みた猿之助は「役者の演技についた音楽」を注文する。

 

 タケルの脚が鳥のようになっていくという場面で、「羽がほしい」と言うと笛が三つ鳴ってジャランと琴の音で決まるところも「ピー、ピー、ピー、ジャラン」ではなくて「ピー、ピー、ピー、(フッ) ジャラン」というイキでなければ歌舞伎の間合いにならない。(『スーパー歌舞伎―ものづくりノート』)

 

 歌舞伎の間合いを創りだすために、あらかじめ「間」を計算して録音するという苦心談である。録音であるため、ただでさえ体が規制されてしまうという困難のなかにあっても「間」を大事に意識的に演じている。

 

  たった二人の小さな動きが空間を支配していたといたく感激して下さっていたけれど、あれは歌舞伎の音楽の使い方をしているわけです。洋楽だけれど、流し方が歌舞伎なんです。二人が手を握る前に音楽を大量に流して、あそこだけぽんと無音楽の間を作っているわけです。間も一つの音楽であるというのが邦楽的な考え方なんですね。(市川猿之助横内謙介『夢みるちから スーパー歌舞伎という未来』)

 

 『新・三国志I』の関羽劉備が手を握る第二幕の幕切れについて述べたものである。見せ場をきわだたせるために、その見せ場の前までは音楽を流しておいて、見せ場のところで無音にするという音楽の使いかたである。洋楽は音をきかせるために「間」があるのに対し、邦楽は「間」をきかせるために音があるという考え方を応用したもので、西洋音楽を歌舞伎的につかった演出法である。

 邦楽的な「間」を使うことで関羽劉備の手の小さな動きまでも大きく見せることができるという演出は、能楽における能面を少し動かしただけでその動作がきわだつという「面キリ」の所作の応用であるという。

 

 古典の方法はもとより、何でも貪欲に取り込むという歌舞伎の性質をスーパー歌舞伎にも持ち込んだ。宝塚歌劇であろうが、京劇の手法であろうが、西洋のフライングであろうが、趣向として使いこなしてしまう。

 カーテン前の芝居は宝塚からヒントを得て、舞台転換の時間を有効活用したし、テンポの速いアクロバティックな立廻リは京劇を導入したものだ。『オグリ』で投身して地獄から飛び立つ場面は、『ピーターパン』のフライングデザイナー、ピーター・フォイのフライング技術を応用したものである。

 身についている三代目猿之助の古典の身体と、古典の教養という引き出しを備えているからこそ成り立つ創造であることはいうまでもない。

 

 

3 スーパー歌舞伎の制作過程

 

(1)『オグリ』

スーパー歌舞伎の方向性が定まったという第三作『オグリ』(1991年4月初演 新橋演舞場)の制作過程を、猿之助がしるした制作日記(『年鑑おもだから』所収「『オグリ』の思い出」)を参考におもな制作過程を抜き書きしてみよう。

 

○ 一九九〇年
 春       梅原猛本『小栗判官』脚本第一幕できあがる
 五月      梅原猛本『小栗判官』脚本二幕目制作途中の意見交換
 六月      舞台装置・照明・衣裳・音楽の打ち合わせ
         タイトルの仮決定
 八月二十八日    梅原猛小栗判官』原作全幕の完成
 九月        衣裳デザインの打ち合わせ
 九月十七日     梅原本のテキストレジー
  〜二十日
 九月二十六日    台本を印刷屋にまわす
 九月末〜      舞台美術の具体的構想
 十月十六日     スチール撮影
 十月十八日     稽古用台本作成を演出助手石川耕士が担当
 十月二十日     衣裳デザイン画完成
 十一月     演出助手石川の直した稽古用台本に手を入れる
         舞台美術コンセプトの洗い上げ
         音楽を邦楽に決定。作曲を依頼
 十二月 七日
  〜二十三日    本読み開始。カットの作業を並行
 十二月二十六日   フライングの演出案、ピーター・フォイに打診 

〇 一九九一年
 一月七日〜     立ち稽古開始、同時に台本の整理
 一月七日      舞台調べ(鏡の寸法)
 一月二十二日    舞台調べ(回り舞台 せり テクニカルリハーサル)
           音楽の寸法
 一月二十四日    ピーター・フォイとの打ち合わせ
  〜二十五日
 二月九日      宣伝キャンペーン、小栗の里を訪ねる
           制作発表
 二月二十二日    音楽の打ち合わせ、仮録音で仕上がりをチェック
  〜二十三日
 三月 八日          鏡コロスの稽古
  〜十六日
 三月十三日     顔寄せ
                                衣裳パレード
 三月十四日〜    稽古
 三月十九日〜    演出家から役者へ
 三月二十一日    音楽の録音の取り直し
 三月二十四日    フライングのテスト
 三月二十八日    照明合わせ テクニカルリハーサル
   〜三十日
 四月  二日間       本番通りの舞台稽古
 四月 六日    初日 

 

 制作過程を整理してみると、演出家猿之助がすべてに目を行き渡らせ、関係者と打ち合わせをしながら具体化し、『オグリ』を創りあげていることがわかる。

 

(2) 歌舞伎を熟知した者でなければできないような演出

 梅原猛本『小栗判官』脚本第一幕を読みながら、「光が主役」― ひかりの照明でセットを作る、物語を映画的に暗転なしに能の手法で展開する、派手な衣裳でいくという、猿之助の三つのひらめきを演出の基本にスタート。完成を待たず、第一幕の台本だけで、すでに舞台装置・照明・衣裳・音楽の打ち合わせのため、猿之助は自身の演出プランを披露し、イメージの共有を図る。

 原作者の梅原にも、梅原本の第一幕ができあがった段階で、猿之助は演出についてのアイデアを話し、第二幕の台本制作途中では、筋運びや段取り、盛り上げるためのせりふ、幕切れの終わり方などについて意見交換をしている。

 できあがった梅原本のテキストレジーは自らが担当。千ページを自ら3分の1カットした600ページの台本を、稽古用台本として仕上げるため演出助手に依頼するが、その際にも登場人物の性格付けやせりふの割り振りなどの作業内容を綿密に指示している。できあがった稽古用台本は、当然、猿之助が細かくチェックし手を入れる。

 衣裳コンセプトをまとめる際も、ファッション性の重視を強調し、登場人物にキャラクターをつけるためのアイデアを提供するなど、自分のイメージを伝える。完成したデザイン画にも目を通し、「ファッションショーとして耐えられる衣裳」かどうかを確認する。

 光と鏡の発想で創る舞台は演出とかかわるため、舞台美術も猿之助が担当。美術監督を名乗る。

 使う音楽を邦楽に決定するが、このとき猿之助の頭の中には全体のコンセプトができあがっている。さらに注文する際、「照手の最初の車曳きは『吉野山』の最初のオキの三味線のような感じ」、「翁が死ぬところは『沼津』の千本松原の胡弓入り合方の感じ」とかなり具体的なイメージで意向を伝える。できあがった音楽を仮録音でチェックし、イメージ通りでないものは新たに注文を出す。録音終了後も直しは初日の二週間前まで続く。

 本読み時に台本カットの作業を並行。立ち稽古を開始してもまだまだ整理は行われる。台本の整理をしながら、舞台美術、音楽は同時進行、大丈夫と確信するまで妥協しない。

 2月9日の制作発表時には、フライングや鏡コロスの稽古は行われておらず、照明合わせは初日の一週間前、鍵をにぎる猿之助演出の目玉は製作途中という状況である。あわせて、キャンペーンで小栗の里を訪れたり、衣袋パレードを行ったりと宣伝業務もこなさなくてはならない。

 演出家だった猿之助が、代役に立っていた市川右近(三代目市川右團次)に代わって役者となって小栗判官を演じ始めるのは3月19日である。役者に戻ったとはいえ、4月6日に初日をあけるまで、猿之助の指揮のもとすべての分野にわたって猿之助が目配りしている。

 新橋演舞場の「オグリ」のチラシには「現代人の心の奥にどんな感動を伝えるのか、演出家・市川猿之助の手腕が冴える」と広告されている。

 

  私の自己診断では、演出的に見ると、『ヤマトタケル』より『オグリ』の方がはるかにうまく出来たと思う。歌舞伎や能の独特のそぎ落としの美学、空間の使い方、溜めを重視した演技術などなるべく多用し、歌舞伎を熟知した者でなければできないような演出にしたいと思っていろいろ知恵を絞ったので、演出的には『ヤマトタケル』よりもよほど上質と思っている。(「『オグリ』の思い出」)

 

演出家市川猿之助の自信に満ちた発言である。

 

4 創造者でありたい

 

  表現者”というものは、その人が死に、その芸を観た人が死んでしまうと、その素晴らしさがどんなものであったか分からなくなってしまう。一方“創造者”の場合は創造された作品が残るので、その素晴らしさがいつまでも消えることがない。“表現者”として生きるのも立派な生き方であろうが、私は後世に自分の作品が残る“創造者”でありたいと思って、“創造”を演劇活動の柱としてやってきた。(『スーパー歌舞伎―ものづくりノート』)

 

 「古来の型を継承する中で自分なりの独自の世界をつくりあげた表現者」ではなく、「自分の作品が残る創造者」でありたいと願い、創造者の道を突き進んだ猿之助。「己れの力で己れの思うような芝居の世界を創ろう」(『スーパー歌舞伎―ものづくりノート』)として、演出家を名乗り、近代照明の導入、斬新な衣裳の創作、オーケストラの採用、テクニカルな舞台装置などなど、感動や興奮を打ちだすための舞台作りをめざした。

 

  伝統というものを考察すると、その中には変わるものと変わらないもの。変えてはいけないものと変えなければいけないものこの4つがある。これを識別できない人が多い。自分に都合のいいように解釈してしまう。(中略)歌舞伎を現代化する場合には、今あげた四つのことをよく考えた上でとりあつかわなければなりません。(「市川猿之助の仕事」『演劇界増刊』第53巻第9号)

 

 あらゆる手法を総動員させるべきであるという考え方を基本的にもちながらも、歌舞伎の新作挑戦におちいりやすいあやまちをおかさなかったのは、猿之助の強固な歌舞伎哲学が芝居作りを支えていたからである。

 

  近代の新歌舞伎があまり省みようとしなかった古典歌舞伎の演技・演出上の要素(踊り・立廻リ・ツケ入りの見得・隈取の化粧)を意識的に取り入れ、なおかつ現代人に感動を与え得るテーマ性のある物語をめざした芝居。(『スーパー歌舞伎―ものづくりノート』)

 

 三代目猿之助がみずから定義した「スーパー歌舞伎」である。「古典歌舞伎の演技・演出上の要素」とは、江戸時代の歌舞伎が培ってきた美意識、発想、演出法、演技術のことで創作の原点はここにあるとした。

 

  日本文化のもとには本歌取りなどがありますし、歌舞伎もそうです。十のうち、八いただいて二つくると、一が独創となって全体が新しく見えるんですよ。(中略)神ではないんだから十が十新しいものを作れるわけがない。(『夢見るちから スーパー歌舞伎という未来』)

 

 個人の創意工夫が伝統の力を凌駕することはできないとする考え方である。この態度は伝統歌舞伎が持ち合わせていた、個人をこえた大きな力につつまれて存在するという感覚で、人間を超えた力に触れる。三代目猿之助は江戸時代の伝統を生かしながら、近代・現代の長所を取り込む融和の方向に向かった。

 猿之助主演・演出のスーパー歌舞伎がシリーズとして九作まで続いた大きな理由もここにあったといえる。

 「歌舞伎であって歌舞伎を超えたもの」という意をこめて命名されたスーパー歌舞伎伝統芸能の可能性の限界を突破したが、人間の全体性の追求という伝統芸能のねらいは保持していた。

 

 スーパー歌舞伎の方法を継承した市川染五郎らの「歌舞伎NEXT」、四代目市川猿之助らの「スーパー歌舞伎Ⅱ(セカンド)」。あるいは十八代目中村勘三郎とともに演出家野田秀樹が手掛けた「野田版歌舞伎」、演出家串田和美らがかかわっている「コクーン歌舞伎」や「平成中村座」、演出家蜷川幸雄尾上菊之助で作り上げた『NINAGAWA十二夜』などなど、三代目猿之助が挑戦し続けてきた数々の演劇運動の成果の上に成り立っていることはいうまでもない。

 三代目猿之助は「異端児」としてその演劇運動にたえず賛否両論がつきまとった。三代目猿之助が味わった苦しみなしに、かれらは歌舞伎の可能性を求めて、伝統歌舞伎の表現方法の限界突破をさらに推し進めて、感覚の開放を果たそうとする。

 若手役者によって新しい試みがなされ注目される今こそ、大きな影響をあたえる革命的な仕事をしてきた三代目猿之助の根本精神は振りかえられなければならない。

 

【京都芸術劇場での関連企画】
2020年10月17日(土)第五回フォーラム「猿翁アーカイブにみる三代目市川猿之助の世界」

 

田口章子(たぐち・あきこ)
京都芸術大学教授。同大学舞台芸術研究センター主任研究員。文学博士。芸術選奨文部科学大臣新人賞受賞。著書に『ミーハー歌舞伎』(東京書籍)、『江戸時代の歌舞伎役者』(雄山閣のち中公文庫)、『おんな忠臣蔵』(ちくま新書)、『歌舞伎と人形浄瑠璃』(吉川弘文館)、『二代目市川團十郎 役者の氏神』(ミネルヴァ書房)、『歌舞伎から江戸を読み直す-恥と情-』(吉川弘文館)、『八代目坂東三津五郎 空前絶後の人』(ミネルヴァ書房)、『歌舞伎を知れば日本がわかる』(新典社)など。編著に『元禄上方歌舞伎復元―初代坂田藤十郎幻の舞台』(勉誠出版)、『京都のくるわ―生命を更新する祭りの場』(新典社)、『日本を知る<芸能史>(上巻・下巻)』(雄山閣)。2002年度より続く公開連続講座「日本芸能史」の企画・コーディネーターを担当。2020年度は、「日本芸能史」のほか、「琉球芸能と組踊 春秋座特別公演」(11月29日(日))、第五回フォーラム「猿翁アーカイブにみる三代目市川猿之助の世界」(10月17日(土))の企画を務める。
 

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