開演を待ちながら

2002年から京都芸術大学 舞台芸術研究センターで刊行している機関誌『舞台芸術』をはじめとする京都芸術劇場/舞台芸術研究センターのアーカイブの中から、おすすめコンテンツを選び出して掲載しています。自宅で、電車のなかで、そして、劇場のロビーや客席 で、少し時間のあいた時に、ぜひご覧ください。市川猿之助、観世榮夫、太田省吾etc…

『舞台芸術』1 号(2002年6月発行) 特集:グローバリゼーション より③

 

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舞台芸術』1号(特集:グローバリゼーション)に掲載されたインタビューをお届けします。
観世榮夫(かんぜ・ひでお)能楽師・俳優・演出家
聞き手:太田省吾(おおた・しょうご)劇作家・演出家

 

 

異化 —— ベルリーナー・アンサンブルでの演出

太田 さて、ここまでおききしたのは、時期的には青芸から自由劇場の旗揚げ、そこから五年ほど関わられたというところまでですが、この間には外国との出会いがありますね。特に六八年のベルリーナー・アンサンブルの『テーバイへむかう七将』の演出が大きなことだと思うんですが、これは前年のブレヒト死後十周年のイベントに参加されてそこで起こった話なんですか。

観世 そうです。東ベルリンで開かれた「ブレヒトのダイアローグ」というシンポジウムに行ったときに、来年ソフォクレスの『テーバイへ向かう七将』をやるラングホフとターテとかいうベルリーナー・アンサンブルの若手の二人の演出家から、是非共同演出してくれないかといわれて。十二月に行って四月までいたんです。

太田 随分と長かったんですね。

観世 うん、稽古の間ずっと。

太田 実は、これを私は全く知らなかったんですよ。能はもっと早く外国に出られていますけれども、こういう外国の演劇現場での共同作業、直接の創造作業でのかかわりは日本の現代演劇として最も早いお仕事だったと思うんです。それを担われていたというのを知らなくて、殊にベルリーナー・アンサンブルですから驚きました。演劇史の流れからいうと、日本の演劇が外国へ出はじめたのは、多分寺山修司さんが最も早かったと思うんですけど、あれが六九年あたりなんですよね。それ以前には日本の演劇人は外に出ていないと思い込んでいたわけです。その後七〇年代に入ってぽつぽつと海外公演が始まり、私も七六年に初めて外へ出ましたが、まだその時期は「天井棧敷」と「早稲田小劇場」と私の「転形劇場」ぐらいでした。もちろん能と歌舞伎が海外公演をやっていることは知っていましたが、榮夫さんのやられたことはそれとは違う現代劇の、それも作品をもっていくということではなく作品をつくるお仕事だったということに驚きました。
 ベルリーナー・アンサンブルのお仕事というのはどんな感じでしたか。

観世 ちょうどクリスマスの日に行って、四月までいたんですよ。十時頃から稽古をして二時頃に終わるのかな。そういう毎日でしたね。休みはあまりなかった気がするけど、それでも夜は必ず芝居を観ていて、その頃いろんな人も来たけどな。

太田 あれは東ベルリンですが、つまり西側とは大分ちがうところもあるんでしょうが、ヨーロッパの演劇現場についてはどういう感想をもたれました?

観世 ベルリーナー・アンサンブルはブレヒトが死んで十年だったけど、まだその頃の役者がいたし、やっていて面白かった。だけど日本で感じていたブレヒトとは違う感じがして、こういうことなのかなとは思いました。

太田 どの辺が最も違いましたか?

観世 一つは翻訳もいけないんだろうけど、異化効果なんていうのはちょっと違うふうに受け取られすぎていたんじゃないかな。例えばこういうふうに線を引いてこうするだろうとか、なぜこれを曲げたのかを感じさせることによって、そこで異化が働いてより行動線がはっきりするということなんだと思うけど、それは特殊なことを考えすぎているんじゃないかな。例えばブレヒトの奥さんのヘレーネ・ワイゲルはブレヒトが演出した『肝っ玉おっ母とその子供たち』の母を演ってるけど、子供が死んだときにワイゲルはうんと耐えて、冷たい顔をしているんだ。だけど皆がいなくなって一人になると、身も世もあらず嘆くんだよ。つまり今まで作って耐えているところからいきなり本心がガーッと出てくる。そういう屈折みたいなもので状況が逆にうんと見えてくる、こういうことが異化効果なんじゃないかと思う。

 これは映画だから分からないけれど、例えば『肝っ玉おっ母』で娘のカトリンが死ぬとおっかさんは泣くんだよな。泣いてるかと思うといきなり葬式代まけろっていう。そういう泣いている心情とパッと次の違う行動に行くことをきちんとやることで、逆に戯曲の表面に書かれていることじゃない深さが出るんじゃないかという気がします。異化効果というのはそういうことじゃないかと思った。日本ではなんか奇妙なことをやりすぎているような……。

太田 日本のブレヒトを幾つか観たことがありますけれど、おもしろさをほとんど感じたことがありません。つまんなそうにやっていますよね。つまり異化効果という言葉をどのようにとらえるか、という問題だと思いますが、演技の面では、平面的にやりますよね。ですから多分違うんだろうなとは思いながらおりますけどね。今のお話だとむしろ角度があるということですね。

観世 そうそう。そういうものが異化の本当の効果なんじゃないかという気がしますけど。でもその間に観たベノベッソンが演出した『ファウスト』は面白かった。それはドイツ座でしたけど。

 

復帰 —— ヨーロッパとの往還のなかで

太田 ベルリーナー・アンサンブルは東ですから西側とは違うところもありましたでしょうけれども、日本に帰っていらしてどんな感じでしたか。もう七〇年代に入りますけれども。

観世 帰ってきてすぐ第一次自由劇場が解散したんじゃないかな。

太田 当時は〈アングラ〉劇団が、私のも含めて始まっていたんですが、ご覧になっていました?

観世 ええ少し……。

太田 何かそこで感じられたことはありますか。

観世 そうね。自分が何をどうやるべきなのかとは感じましたが……。もう一度考えるということはいいことだったと思う。

太田 年表を見た感じでいいますと、その後あんまり若い劇団と関わりをもたれなくなりますので、これは見捨てたかなと思ったんですが、どういう感じでしたか(笑)。

観世 いや、見捨てたんじゃなくて、どうしたらいいのかなと思って。

太田 それは『冥の会』の結成とも関係しているんですか?

観世 いや「冥の会」は、一つは能の中で、能だけやってたんじゃ……そういう欲求があったのかな。

太田 世阿弥座というのは、どういう関わりだったんですか?

観世 そっちは、外国に行くときの兄貴を中心とした公演団の名で、兄貴が死んでからは僕や狂言野村万之丞(現・萬)、ワキの宝生閑などが主軸になって海外公演に行きました。僕本人は演出的な視線を持った能作りというのはあるべきじゃないかと思って……。演出家が新しいものをやるということじゃなくて、そういう視線が本来能になくちゃダメなんじゃないかと思う。日本で僕がまだ能を出来ない頃、外国公演で一つはイェーツ原作、横道萬里雄作の能『鷹姫』を新演出でやろうということになって。

太田 その場合に外国に行くという機会をその試みに使った。

観世 ええ。

太田 そうすると能界を去られたときおやりになりたかったことが一つ一つ実現し始めた感じですか。

観世 そうですね。だから十年以上能をやっていなかったけど、貴重というか、体作りのようなことをやれたのは、鍛えなおすということは貴重といえば貴重ですよね

太田 その機会として外国でやるということは上手く作用した。

観世 そうですね。また違う方向から。

太田 少し話がひろがりますが、日本は近代ヨーロッパ化する道を歩みますがその中で、普通の家とは違った、伝統を重んじる、そしてそれを仕事とする家にお生まれになったわけですから、社会が西洋近代化する時代の中で能というものをおやりになって、戦争や社会の変動、時代の変遷があって、ご自身の歩む道の大きな選択にもそれは影響があったのでしょうが、その中で日本人にとっての近代ヨーロッパというものを、実際往復されながら、どういうふうに感じられましたか?

観世 ベルリーナー・アンサンブルで僕はオケーシーの『紅鹿(パープル・スタッド)』を観たのですが、俳優座でも上演したのを観ているのですが、違う芝居かなと思うほど……。論議の方が先に来るから逆に論議がよく分からない。何か違うんじゃないか、ここが違うというところを乗り越えないと芝居というのは本当に面白くならないんじゃないかと思いました。

太田 それは相当難しい問題ですよね。

 ところで『鷹の井戸』をずっと継続的にやっていらっしゃいますが、それを七八年にダブリンでおやりになった。これはどういう企画だったんですか?日本人がやったんですか。

観世 いや、ナショナル・シアターで。ナショナル・シアターの地下にピーコックという小さい劇場があって、そこでやったんだけど、面白かった。『鷹の井戸』と『オンリー・ジェラシー・オブ・エマ』の二本です。

太田 この頃は僕らの感覚と随分違う感じですね。僕らの年代ですと七〇年代の後半はまだ先が見えないながらも突っ走っていくというところがありましたが、今のお話ですと反省期というか、もう一回考え直そうとしていらっしゃるように感じられます。少しずつそういったものをおやりになられていって七〇年代の最後に復帰なさる……。

観世 それは一つには、その春に兄貴が鈴木忠志のところで『トロイアの女』をやっていた途中に癌だということが分かって公演を打ち切ったんですよね。それで手術をしたときに僕は医者に「すべて取りましたが半年たって出なければいいが、悪性だから」といわれて、それが二月だったんですが、やっぱり半年たった八月に再発して九月の初めに再入院したんです。僕がアイルランドのダブリンに発つ前日に、そのときあと三ヵ月位だろうといわれていたんです。その出かける前に、能をもしやるんだったら今戻らなくては、と兄貴は言って、僕がダブリンに行ってる間に病床からいろんな所へ手紙を書いてくれて、僕が能に戻れるように計らってくれた。

太田 復帰される状態を作ってくださったんですね。

観世 そうです。それでダブリンが終わって帰ったときにはまだ元気な顔をしていたんだけど、僕が会ったあくる日からもう口が利けなくなって二日めくらいに死んだんです。

太田 待っていらしたんですね。

観世 そんな感じでしたね。

太田 僕らはあまり分かりませんが、復帰されたところでは問題はなかったんですか。

観世 向こうがいやだといえば別だけど……。

太田 まずは喜多流の方へ戻られたんですよね。それを解いて観世銕之丞家へ。

観世 そうそう。

 

映画 —— ジャンルの横断と視点の移動

太田 話は変りますが、かなり映画に出演されていますね。

観世 テレビはわりにメロドラマなんか出たんだよ、何年か。初めて出たのは緒形拳主演の『太閤記』……。

太田 そうすると映画の方が先ではなかったんですか。

観世 いや、テレビが先。青芸の頃だよ。

太田 そうですか。緒方拳は新国劇でしたよね。

観世 そう。やめてすぐぐらいだよ。

太田 そこからでしたか。

観世 ええ。そのあとまた大河ドラマ『三姉妹』『竜馬が行く』に……。映画に出たのは一九六二年の勅使河原宏の『おとし穴』という作品、それから新藤兼人さんの作品に。

太田 舞台と映画ではかなりのちがいがあると思いますが、そういう感じをおもちですか。

観世 『おとし穴』では、軽トラックにカメラを載せて、主人公の井川(比佐志)君の歩く沼のほとりの道を移動してつけて行くんだけれど、勅使河原がエンジンをかけるとカメラが揺れるから嫌だというんで、皆で縄をつけて延々と引っ張るんだけど、なかなかむつかしくてね。なんでそんなことをしたんだろうかね。五日の出演でいいといわれていたのに一ヵ月もそんなことをして出演料五万円を貰った。そのときは宿でご飯は出るけど飲み物は自前なんだ。その自前の分が五万円だったんだ。その間に僕は勅使河原さんと飲みに行ったりしているから大赤字の映画出演だった。

太田 画面に自分の顔が出るということがありますね、舞台では見ることができないけれど。そういう感じはどうでしたか。

観世 やっぱりクセっぽいんだなと思って(笑)。

太田 演技としては違和感ないんですか。

観世 だから自分が思っているよりはどこかあるんじゃない。それで、青芸の最後の公演のときに俳優座に新藤さんが来て、出るようになったんだ。

太田 何という作品ですか。

観世 『本能』。四季があって約一年の間、二ヵ月くらいずつ信州蓼科へロケに行って大変でしたね。新藤さんの別荘が蓼科にあるんですけど、夏向けの家だから枕元の水が凍ってしまったり、大変だったけれど楽しかった。

太田 そういうのは映画の良さなんでしょうね、ロケなどでは長い間共同生活したりして。まあ五万円なくなっちゃうけど(笑)。その後は幅広いジャンルの横断の中に能の上演が加わっていって、それが多くなってきますよね。一旦離れて、外国に行くような条件ではおやりになっていますけど、お帰りになった後は改めて能というものをどのように感じられましたか。

観世 新鮮な、違う角度で能を見られるようになったことはありますね。

太田 どういうところに最もそういうことをお感じになりましたか。

観世 やっぱり兄貴のせいもあるんだろうけど、周りの人達が能というものをもう一度自分の目で見直してみるような姿勢を持つようになった。そういう意味では変わってきたという感じがありますけどね。僕も兄貴が死んでから、兄貴が志した能のあり方を、みんなで追い求めるということでやってきて、よくなっていると思います。でもそれも習慣化するとまた悪い面もあります。

太田 昭和の初期にすでに言われていましたよね、野上豊一郎が、能は習慣から離れ一旦外国人の目で見直すところから始めなければ、といったことをいっています。まさにそういう風な時期を過ごして帰ってらした時点で、そういう新しい感じ方をされるのは分かるんですが、能楽界全体にそういう雰囲気が起こっていたんですか?

観世 それは能以外の舞台に出ることだって能楽協会では問題になって大騒ぎでしたからね。今は萬斎にしろ誰にしろ、出たって誰も文句を言う奴はいないくらいに能界全体としては変ってきたと思いますが、自分を見つめ、自分を問い直し、考え直し作り直すという努力をしないと、古びたパターンになってしまう。いつも新鮮な自分を保っているということが大変難しいんですがね。

 

身体 —— 能芸論へのイントロダクション

太田 ここから後は、能のお仕事を中心になさる時期に入りますので、能のお話をうかがうことになります。次回の楽しみということにしたいと思いますが、そのイントロダクションとして、一つだけお聞きしたいことがあります。能という演劇の様式は、世界の芸能、演劇の中でもきわめて珍しいところをもっている。観客と癒着することを拒否するという在り方を基本に持っている。僕は能を観ているといつも、なぜこんなものが現れたのかと思います。芸能、あるいは演劇の全ては前へでるという習性をもっていますが、能は、もちろんそういう面ももっていますが、前へ出ていかない在り方を基本的にもっている。たとえば居グセ、いわばただ座っているだけ、あの時間はどういう時間なんですか、演じられていて。

観世 あれは自分のことを外から語るというところと自分の内面が、ないまぜになっているので、……どういう気持ちって言われても困るんだけど(笑)。クセっていうのは、能の先行芸能としてのクセ舞という、謡い舞いながら一つの世界を描きだしている芸能――たとえば今も能の中に形が残っているのは、地獄のクセ舞、山廻りのクセ舞など語り舞の形を観阿弥能にとり入れたものです。それを世阿弥は夢幻能の中の主人公の内的な心象を語る形にしているので、シテがその役として語っているところと、客観的に語っているところが、不即不離にないまぜになってる。

太田 身の処し方というか。あれは耳は完全に地謡の方にいっているんでしょうかね。

観世 そうですね。だけど耳という感じじゃなくて、謡っているのは文だけが身体の中に入ってきて、ある程度冷静でいなくちゃならない面と、その時々の感情とがないまぜになって、常に演じている主人公の視点でものを見るというのではないので、『井筒』なら『井筒』の女、それをもう一つ全体の中で見る目がないとできないし、あるときは紀(きの)有(あり)常(つね)の娘であるし、あるときは業平だったりという面もなくちゃならないし、もっと俯瞰で全体を見ているという面もなくちゃならないという、そういう……心理という形では割り切れない形です。

太田 その複雑さは、観客も感じるもので、高度な能の表現のハイライトのように思えるところですね。能の様式、あるいは能芸論のお話は次にお願いしたいと思います。よろしくお願い致します。今日はお答えになりにくいこともお聞きしましたが、大振幅の演劇人の振幅のほどは読者の方々に伝わったのではないかと思います。有難うございました。
(二〇〇二年二月二六日 取材協力=荻原達子)

 

⇦ 観世榮夫「わが演劇、わが闘争」2 戦後 —— 他なるメソッドを求めて へつづく

 

観世榮夫氏のインタビュー等は『舞台芸術』の以下の号にも掲載されています。
2号 (2002年11月発行  聞き手=渡辺保
3号 (2003年4月発行) 聞き手=林光
4号 (2003年8月発行) 聞き手=新藤兼人 ※在庫なし
6号 (2004年7月発行) 聞き手=茂山千之丞
7号 (2004年12月発行) 聞き手=茂山千之丞

12号 (2007年10月発行)「追悼 観世榮夫」

 

観世榮夫(かんぜ・ひでお)
1927年生まれ。能楽師・俳優・演出家。58年に能楽を離脱し、現代演劇、オペラ、映画など幅広いジャンルで活動。79年に能役者として復帰後は、廃曲の復曲上演などにも積極的に取り組んだ。京都造形芸術大学(現・京都芸術大学)教授や同大学舞台芸術研究センター主任研究員を務めた。2007年逝去。
観世榮夫 略年譜

 
聞き手:太田省吾(おおた・しょうご)
1939年、中国済南市に生まれる。1970年より1988年まで転形劇場を主宰。1978年『小町風伝』で岸田國士戯曲賞を受賞。1960年代という喧騒の時代に演劇活動を開始しながら、一切の台詞を排除した「沈黙劇」という独自のスタイルを確立する。代表作『水の駅』は沈黙劇三部作と称され、現在でも世界各地で作品が上演されている。また、『飛翔と懸垂』(1975年)、『裸形の劇場』(1980年)など、数々の演出論、エッセイを著している。転形劇場の解散後は、藤沢市湘南台文化センター市民シアター芸術監督、近畿大学文芸学部芸術学科教授を経て、2000年の京都造形芸術大学(現・京都芸術大学)映像・舞台芸術学科開設や、続く2001年の同大学舞台芸術研究センターの開設に深く関わり、日本現代演劇の環境整備に力を注いだ。2007年逝去。
 

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