開演を待ちながら

2002年から京都芸術大学 舞台芸術研究センターで刊行している機関誌『舞台芸術』をはじめとする京都芸術劇場/舞台芸術研究センターのアーカイブの中から、おすすめコンテンツを選び出して掲載しています。自宅で、電車のなかで、そして、劇場のロビーや客席 で、少し時間のあいた時に、ぜひご覧ください。市川猿之助、観世榮夫、太田省吾etc…

『土方巽―言葉と身体をめぐって』(2011年3月発行) より

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土方巽―言葉と身体をめぐって』(2011年3月発行)に掲載された山田せつ子氏のテキストを掲載いたします。
山田せつ子(やまだ・せつこ)ダンサー・コレオグラファー

 

 2009年6月から2010年3月までの間、3回にわたって京都造形芸術大学(現・京都芸術大学)で行った公開研究会「土方巽研究会」に参加していただいた方々に、あらためて土方巽についての寄稿していただいたのが、この一冊である。研究会での各発表や、ディスカッションの模様はWEBサイト「土方巽~言葉と身体をめぐって」 で読んでいただくことができる。ここではそれとは別に、この研究会の終了後にあらたに書いていただいた。

 舞踏、舞踊評論、哲学、思想、演劇と異なった仕事の場所におられる方々によって、今どのように土方巽は捉えられているのかが、見えてくるだろう。この小さな研究会が始まったいきさつと、この過程で私自身が受け止めたことについてはじめに触れ、序とさせていただく。

 

 

 研究会の準備をしている頃、「土方さんに触りにいく」――こんな言葉が浮かんだ。何かが腑に落ちた。1980年代、舞踏がヨーロッパで注目を浴びる一方、日本でも欧米の影響を多大に受けながら、あらたなダンスが姿を現してきた。舞踏、モダンダンス、バレエ、という枠組みを超えた作品が現れ、それまでのダンステクニックと離れたところからもダンスが生まれてきていた。ワークショップという開かれた体験の場が多く企画され、舞台作品だけでなく、身体を通した社会的コミュニケーションの場として、様々な可能性が現われてきた。多様な身体性を持ったダンスが、コンテンポラリーダンスとして市民権を得はじめた時期でもあっただろう。私は1970年代の初め笠井叡氏の主宰する舞踏研究所「天使館」で踊ることと出会い、舞踏から大きな影響を受け、その後、自分自身のダンスを見つけ出す作業をしていた。

 しかし、そんななかでも、折に触れ、深い「穴」、それも身を呈して覗きこまなくてはならない「穴」のような場所として意識の隅に繰り返し訪れてくるもの、それが土方巽の舞踏であり言葉だった。

 

 土方巽振付の暗黒舞踏を見たのは、新宿歌舞伎町のジャズ喫茶が並ぶ界隈の小さなスペースだった。入ロではまなざしの鋭い女性がチラシを配り、呼び込みをしていた。「土方の舞踏を見に行こう!」と、友人に誘われて出かけた私に、まずその女性の姿が焼き付いた。これから始まるものが、ただごとではないという予感のなかで狭い階段を上がり、僅かな観客の間に身を滑り込ませて座った。少しして全身を真白に塗り、しなやかに上体をうねらせた全裸に近い女のからだが現れた。人間とは遠い、しかし動物でもない、奇妙な物質の質感をもったものがそこによつんばいになった。目を凝らして見るとさきほどの女性だった。その人、芦川羊子ともうひとりの舞踏手、小林嵯峨の舞踏は静かに、強く、足先を捩り、中腰でからだを浮かせたと思うと、ストンと物のように床に落ちて見せたりした。あっけらかんとしたからだが異形のからだを重ねていく。ある意味イニシエーションのようにやって来た時間だった。土方巽自身の舞踏と出会ったのはその後だった。

 

 土方異は怪獣のように佇んでいる。目の前にというわけではなく、むしろ背後にいて、振り返ると確実に視野に入ってきて、息を飲む。眼球が光るガラスのように見開かれているときもあれば、伏せた瞼が知覚のひとつひとつを数えているように見えるときもある。幾つもの触覚を持ち、物との距離を見たこともない物差しで花降らせるように測り続ける。帽子から鳩を出す手品師のように様々な擬音を発する。明晰な言語と謎めいた言葉が密接に、パズルのように組まれ、その僅かな隙間から唐突に疾風が吹いてくる。からだを無数に折りたたんだり、伸ばしたり、捩ったりする。その姿は怪しい風に包まれていて、近づくとこちらの指先が一瞬で揮発してしまうようで、少し離れて、身構え、更に最大の防御体制を取る。私はずっとそんなふうにしてきたように思う。おそらく、あまりにも大きな影響力を感じていたからだろう。土方巽の書物に関しても、あまりいい読者ではなかった。『病める舞姫』は幾度となく挫折し、投げ出し、また挑戦した。

 そんなふうだったにも関わらず、今回、舞台芸術研究センターでこの研究会の企画を思いたったのは、大学の授業でダンスについて話すときに、土方巽が残した言葉を幾度も引用している自分に気づいたことが始まりだった。

 映像・舞台芸術学科では、ダンスの経験がない学生も多かった。そのような学生を前に、身体についてダンスについて言葉を使いながら、踊ることをひとつひとつ共に見つけ出していくとき、折に触れ土方巽が残した言葉を引用した。それはかつて目の前にいる学生達と同じ年齢であった私が、あの深い「穴」を前にしたときの覚醒した緊張を思いだすと同時に、自分自身が踊りながら、土方巽のもとで舞踏を学んだのではないにも関わらず、いかに土方巽の多くの言葉を糧にしてきたかを自覚させられる時間だった。ただ横たわるために、ただ立ち上がるために、ただ歩くために、それらの言葉を引用した。暗黒舞踏の振り付けという枠を超えて、示唆される多くの言葉がそこにはあった。

 勿論、DVD化された映像も鮮烈で、学生達に衝撃と困惑をもたらした。フォーサイスピナ・バウシュローザスに新しいダンスの発見を見ることになるが、踊る土方巽の映像の前では息を詰める。しかし、詰めた息のなかから幾つもの問いが聴こえてくるようになる。なぜ、あんな動きをするのか、どうしてあんな衣装を着ているのか、何をしようとしているのか……。

 絶句したあと、学生達からそのような素朴な問いがやってくる。

 生々しく、その舞踏を前にすることのできない今、土方巽が残した言葉と、土方巽に触れ続けようとする人たちの力を借りて、この途方もない存在に触れる。実際に教えを受けた舞踏家達、生前様々な出会いをした人々、死後、映像、言葉に触れ大きな衝撃を受けた人々と、ともに……そんな欲望を持ち始めた頃、舞踊評論家であり、土方巽の『病める舞姫』を丁寧に読みすすめ、研究を重ねている國吉和子さんに特別授業をお願いする機会があり、お話いただいた。書物のなかの言葉と、舞踏の具体的な振りを往復しながらのレクチャーはとても興味深いものだった。それがこの研究会を始めるきっかけとなった。

 土方巽の意志をつぎ、踊り続けている方々を紹介する方法もあっただろうが、今回あえて、残された言葉に一つの大きな軸を置いていくことにしたのは、これからも読まれ続けるだろう土方巽の言葉がその舞踏と同じように、深い「穴」になるだろうと思えたからである。現在、残された舞踏譜を丁寧に解読・再現していく大変な作業が、和栗由紀夫さん、森下隆さんを中心に行われている。この研究会においてもその作業の過程が森下さんによって紹介された。このことは長い時間のなかで次の世代への贈り物となるだろうと思う。一方、また別の地平で、まったく思いもよらないダンスの場所を、あるいは表現の、思考の場所を土方巽の言葉が開いていく可能性を想像することができる。今回の「土方巽研究会」というおよそそぐわない名称も、かえってこの巨人が持ち続ける気配から距離を置き、様々な扉の前に立つことから始めるにはいいかも知れないと思った。

 

 研究会の始まりに、なかなか見る機会に恵まれない土方巽の映像をできるだけ公開しようということがあった。慶応大学アートセンター、土方巽アーカイブの森下隆さんの多大な協力のもとに土方巽の舞踏作品映像をあらためて、まとめて見ることができた。三月の研究会で、土方巽の舞踏を映像で見ることに意味があるか、という意見も聴衆の方から出たが、私は勿論必要だと思っている。あのような身体があったことが繰り返し伝えられる必要がある、そして、映像によってでも、受け取るに余りあるものがそこにはあるとまたあらためて思った。

 映像のなかの土方巽の身体は坐骨が床の上で波乗りするように動く、胴体がえぐられ空気を懐に抱いていく。空中に浮いた手、足がそしらぬ身振りを重ねていく。眼球がスライドする。かつての舞台で、私を揺さぶった感覚が蘇ってくる。というよりは映像によってある意味より鮮明に、緻密にその身体、あるいはからだを体験する。

 土方巽の作品性とともに、土方巽の身体そのものの在りようが浮き上がってくる。精密な線が重なりあってできているような動きは、突然方向を失うようにその重なりを分断し、継ぎ合わせ、また次の重なりのなかに落ちていく、どこに重心があるのかもわからない、浮くように落ち、落ちるように浮く。

 このからだを作り出しているものは何か、運動的動きの稽古では到底届かない場所、身体のなかで知覚が反乱し、制御され、また反乱をおこしていく。おそれずに云うならば、権力も抑圧も、時間も空間も一個の身体のなかで互いを引き寄せ、突き放し、撫で、揺らいでいく。この果てしない繰り返しが奇妙に穏やかに、そしてとらえどころなく続いていく。見る側は、どこかに着地点を探そうとする。他の舞踏家には用意されているいわゆる動きの落とし所というものを土方巽の身体は回避していく。見る者は繰り返される揺れ、不安定なバランスに自らの知覚を預けていくしかなくなる。そして唐突な切断がやってくる。その瞬間、自分が何を見ていたのか、見たこと自体との距離感を失う。

 自分がこのことに大きな衝撃を受けたのだったと今更ながらに思った。舞台という場所で実験台にたたされるように起きる観客としての試練、それは謎を受け取る奇妙な喜びだったが、いわゆるアンダーグランドと総称されるものにありがちな熱と集団性と程遠く、自分自身のからだの輪郭を抱きながら帰途に着かざるを得ないものだったことを思いだした。からだのなかで無数の知覚を渦巻かせる、このような身体が何によって成立していたのか、あらためて驚愕する思いだった。纏われた衣装や舞台空間はほとんど遠ざかり、この身体の在りようが鮮烈な問いとしてまた浮かびあがってきた。

 

 

 今回、研究会の基本的な態度として映像と同時に土方巽が残した驚異的な言葉の群れに視点を寄せるということがあった。河出書房新社の『土方巽全集』の出版によって講演の記録や、作品創作のプロセスを知る手掛かりが広く公開され、土方巽の言葉・身体・イメージの関係に想像を広げることができるようになったことはとても大きい。

 ニジンスキーイサドラ・ダンカンが残した日記や手記は、すでに見ることができないダンスをイメージすることを助け、そのダンスが生まれた謎に手を伸ばそうとするものに多くのヒントを与える。土方巽が残した書物もそのようにして読むことができるだろう。

 しかし、『犬の静脈に嫉妬することから』『病める舞姫』などの凄まじい言葉の群れは、そのような読みかたを超えて脅威的な読み物としてやってくる。言葉自体が踊り、綴じられた紙から溢れてくる。物質を見ることの執拗さに圧倒されながら、獣道を辿るように読みすすめていけば、現れた物質が乱反射するように拡散していく。ひとつ、ひとつ語られる様々な出来事や物の在りようは、東北ではないにしても、幼い頃を長野で過ごした私には、それほど遠いものには思えなかった。そう感じる人も少なくないだろう。あ、そうだ、知っている、と思いながら、そのそばから渦巻くような場所に連れていかれる。意識のなかで再現され、再生された記憶が、言葉となって、踊ることとなって無数の出口を求めて出ていく、放り出されていく。言葉と知覚が渦巻いていく。これは、すでにイメージという云い方では足りないような、もっと硬い、重なりあう鉱物のようなものであったり、吹きすさぶ風の出会い頭のそれこそ「カマイタチ」のようなものであったりもする。そして、そこには必ず、からだが引きずり出されるようにしてある。踊るからだが、動きの連鎖と断絶を通して意味を無化していくときの熱に似ている。

 

 このような言葉が踊ることを作りだしたのか、踊ることがこのような言葉を生みだしたのか。こうした言葉の群れが日常的に襲いかかることで、知覚の氾濫する身体が成立したのか、泡のように浮きたつ知覚があのような言葉を呼び寄せてきたのか。こんなことを思いながら、沈黙のなかで踊り続ける身体と、もうひとつの身体、土方巽の声について考える。甲高く、軽く、そして異様なリズムとうねり。これはあくまで録音された『慈悲心鳥がバサバサと骨の羽を拡げてくる』で聴こえてくる声のことを言っている。声が踊っている。呪術師のように声が言葉を呼び、運び、飛翔する。声という身体に言葉が乗っていっているようにも感じる。声という器官をもてあそんでいるようにも聴こえる。私はこの声の印象を抜きに、『病める舞姫』を読むことができなくなっている。声と言葉の間には不可思議な密約があるように思う。

 何かをはっきりしようとすることで、大事なものをこぼしてしまうのではという恐れがいつもどこかにある。私の「土方さんに触りにいく」は、そのような恐れを少しずつ取り払い、土方巽の仕事について、ダンスについて考える過程だった。この研究会をすすめている同じ時期に、私は久し振りのソロダンス作品『薔薇色の服で』を創作していた。言葉が身体の閉塞を解き、身体が言葉の閉塞を解く、互いが溶け出して互いを受け入れるようなダンスの場所を探していた。この研究会で受け取ったたくさんのことが、この創作過程に多くの示唆を与えてくれた。

 序にしては、私感を書きすぎたかもしれない。

 

 

 3月に3日間集中して行われた研究会の終わり近く、若い演出家の三浦基さんが言った。「土方巽はまだ死んでまもないんだな、と思った」。私は素朴で的確な言葉を妙にほっとする気持ちで聴いた。土方巽の仕事がなんだったのか。そのことを考えるには、まだあまりに生々しい気配が私達を捕えている。この研究会の過程でもその只ならぬ気配が場を覆うことが幾度かあった。しかし、三浦さんはそのようなものを受け止めながら、なんとものんびりと言ってのけた。これからいろいろな形で土方巽の仕事が伝えられ、触られていくだろう。そのひとつとしてこの一冊もあることを願っている。

 

 

山田せつ子(やまだ・せつこ)

明治大學演劇学科在学中、笠井叡に即興舞踏を学ぶ。独立後ソロダンスを中心に独自のダンスを展開し、日本のコンテンポラリーダンスのさきがけとなる。1989年よりダンスカンパニー枇杷系を主宰、2000年より京都造形芸術大学映像・舞台芸術学科教授。現在は京都芸術大学舞台芸術研究センター主任研究員として企画に携わるとともに、ソロダンス活動やダンスカンパニーへの客演も継続している。著書『速度ノ花』(五柳書院)。2020年は10月に札幌シアターZOO、11月に京都シアターE9でのダンス公演を予定している。
 

 

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