開演を待ちながら

2002年から京都芸術大学 舞台芸術研究センターで刊行している機関誌『舞台芸術』をはじめとする京都芸術劇場/舞台芸術研究センターのアーカイブの中から、おすすめコンテンツを選び出して掲載しています。自宅で、電車のなかで、そして、劇場のロビーや客席 で、少し時間のあいた時に、ぜひご覧ください。市川猿之助、観世榮夫、太田省吾etc…

『舞台芸術』1 号(2002年6月発行) 特集:グローバリゼーション より①

f:id:shunjuza:20200510201005j:plain舞台芸術』1号(特集:グローバリゼーション)に掲載されたインタビューをお届けします。
観世榮夫(かんぜ・ひでお)能楽師・俳優・演出家
聞き手:太田省吾(おおた・しょうご)劇作家・演出家

 

大振幅の歩み

太田 舞台芸術研究センターが機関誌を出すことになりました。その編集委員会で皆が大いに関心を持った企画が出ました。観世榮夫という演劇人の在り方を脱がしてみたいという企画です。ということで私がまず、榮夫氏がどのような経験をたどった演劇人なのかということをひと通り伺う役を担うことになりました。ですので、このインタヴューは、いわば「時代の中の演劇」といったものになると存じます。つまり、歩んでこられたところをお話しいただき、次回では「能芸論」を語っていただきたいと考えておりますし、様々な方々との対談で観世榮夫の多面を連載していきたいと考えております。どうぞよろしくお願い致します。
ちょっと余分なところからですが、一度だけ仕事をご一緒したことがあるんですが、覚えていらっしゃいますか。

観世 覚えています。

太田 何でしょうか、クイズです(笑)。

観世 え? なんだったかな、覚えてるけど……。

太田 三十五年ほど前です。僕は演出助手をやらせていただきましたけれども、別役実さんの『赤い鳥の居る風景』でした。あれで別役さんが岸田戯曲賞を受賞した。「企画66」の公演でした。アングラで初の岸田賞でした。

 お話に入る前に、今日、このインタヴューをやることになって私自身の能との関係を思い返しました。遡ると僕が十七歳、高校二年生のときにいわゆる処女作というやつですね、演劇批評家の菅孝行と二人で同人誌を出しまして、そのときに『綾の鼓』の書き換えというか、『美姫』という作品を書いたんですよ。そこからわが演劇は始まった(笑)。スポーツ選手だったんですけれどね。

観世 何年ごろ?

太田 五五年ぐらいかな。その随分と後(七七年)に能舞台での上演を前提とした作品、『小町風伝』を上演」しまして、そのおかげで銕仙会とかなり近しい関係をもたせていただきました。その他、第一回の利賀国際演劇フェスティバル(八二年夏)でご一緒したり、パリでも実は入れ違いでしたけれども「クローズアップ・オブ・ジャパン」という企画で市川猿之助さんや鈴木忠志さんや勅使川原三郎さんとご一緒しました。あとはアヴィニヨンのシンポジウムでお会いしたことがありましたね。

 そんなふうに考えているうちに、もっと以前のことまで思い出してしまいました。僕の中学時代の国語の先生として、なんと松崎仁先生や小山弘志先生(ともに狂言の研究者)がいらしてたんですよ。

観世 へぇー、そう。

太田 そのせいだと思うんですが、一、二度中学時代に能を見ています。山本能舞台というのはありますか?

観世 ある。

太田 それへ見に連れて行かれました。

観世 東京の杉並区にあって、今は杉並能楽堂といっている。

太田 そうでした、杉並でしたね。中学時代のそんなことまで思い出しましたね。

 

原点 —— 戦時下の少年時代と東京音楽学校

太田 さて、今日はどのようにお話を伺おうかと思ったんですが、やっぱり僕らが何に興味があったかというと、観世さんが大振幅、振幅の大きい演劇人だということですね。能の世界の中での大振幅、そしてジャンル横断という意味での振幅をもっていらっしゃる。この大振幅の中に何があるのかということがまず第一の興味だと思うんです。その振幅は現代の演劇を考えるときに何か大事なものを含んでいるのではないかという、そういう興味だと思うんです。

 ということで、お生まれのところから伺いたいのですが、一九二七年にお生まれです。演劇とは離れますが、当時の少年というと戦後左翼になった人でも当時は軍国少年で兵隊さんに憧れるとか、周りは軍国少年少女の時代だったと思うのですが、どんな感じで過ごされていたんですか。四歳で満州事変なんですよね。

観世 そうですね。満三歳と五ヵ月ぐらいで初舞台をしてます。家の方針もあったかもしれないけれども、兄貴(寿夫)をはじめ僕の兄弟は皆、満三歳ぐらいから初舞台をしてそれから子方の役をやって小学校に入る六歳のときには初ジテをやるんです。皆違うものですが、僕は『忠信』でした。頼朝に追われて吉野の山中に隠れた義経を、衆徒たちが急襲するのを、佐藤忠信は腹を切ったと見せかけて義経を逃し、追ってくる追手を切って義経の後を追う、という作品です。その忠信の役をやったのです。

太田 歌舞伎でも取り上げられているものですね。

観世 ええ。それが初ジテ。家の中に舞台がありましたし、小学校に行って帰ってくると舞台で遊ぶ。それもお能の真似をして遊んでいましたからね。私の祖父(華雪)は、外の人間にはとても柔らかいけれど、家の中では厳しい顔をしていたんですが、僕ら孫たちがお能の真似をするのを喜んで見ていたんでしょう。自分で布団の布か何かで能装束のようなものを縫ってくれて、それを着て遊べっていってくれた。

太田 世の中の少年とはやはり随分ちがう感じですね?

観世 学校へ行って帰ってくると兄貴がいて、いい加減なものでしたが、能の真似ごとをして遊んでましたからね。隔絶ってこともないけど。学校は学校で行ってましたから。それは別に特に努力してやってるってわけでもないし、遊びでやってることだから……。ただ兄貴はいつも自分がいい役をやるから、こっちはいつも相手役みたいなことばかりで。謡だってちゃんと謡えないし本だってちゃんと読めるかどうか……。

太田 僕らにはちょっと想像できないですけれども、そういう遊びを既にずっとやってらした……。

観世 ええ、かなりやっていましたね。

太田 普通の子達は戦争ごっこじゃないんですか?

観世 まあその合間に、ちょうど舞台が四角いから舞台の上で野球をやってガラス割ったりしましたけどね。

太田 敗戦時が十八歳なんですよね。

観世 その前の年に僕は東京音楽学校(現・東京芸術大学)に入ったんですよ。一九四四年じゃないかな。その頃は戦争がひどくなってきて、家の中で稽古したりして音が出ると周りがうるさいことをいってましたから、あまり家で稽古できなかったんですね。

太田 芸事が。

観世 うん芸事が。それで芸大に行くと学校だから……。

太田 芸大は保護地区だった……。

観世 保護地区というか、音出したって当たり前だと思われてるから。それは幸せだった。芸大は卒業すると音楽の先生のお免状をくれるわけですよ。それで声楽とピアノだけは習わせられて。

太田 学部は邦楽ですよね。

観世 ええ。芸大は僕が入る前の年までは本科と師範科と邦楽科があったんだけど。

太田 西洋音楽が本科になるわけですか。

観世 そう、西洋が本科で、師範科が学校の先生専用の科で、それから邦楽科があったんだけど、僕が入った年から全員が本科になっちゃった。やっぱり政治的な体制になっていたのかもしれないけどね。だから入学式の日に奏楽堂という……。

太田 はい、今でもあるやつですね。

観世 今は新しくなっていて、芸大近くの博物館の前に古い奏楽堂が建ってるんだけど、そこで集まってコーラスの稽古をして、木下保さんが一所懸命指揮をして歌ったんだけど、僕らの周りだけ不思議な声の出し方をするものだから先生が見てるんだ。

太田 発声が違うから。

観世 しばらくたってから、君たちは邦楽の人か、なんていわれちゃって。そこでピアノと声楽のお稽古をして……。ピアノはいい先生についた。水谷達夫先生で、アップライトが一台あって四畳ぐらいの部屋に先生と僕の二人なんです。先生たちは俺たちなんか教えたって面白くないだろうけど。水谷先生はとにかく弾けるようにまでしてくれた。小一時間の授業のうち三十分教えてくれて、後は先生たちも自分の家でピアノが弾けないものだから弾いていらっしゃるんですよ、一対一で。

太田 学生は聴いてるっていう感じで。

観世 そう、ベートーベンを弾いていらっしゃった。邦楽と音楽のあり方の違いみたいなものを知らず知らずに教えられた、大変にいい授業だったと思います。ただ試験のときは恥ずかしくて、井口基成先生はじめずらっと大家が並んでいる前で試験なんだけど、初めが声楽の人で次がピアノ科なんですよ。ピアノの人は試験が別で、そこではやらなくて、バイオリンやフルートの器楽の人がやって、その次が作曲科の人の試験で、邦楽科はその次なんだよ。僕がその一番初っ端で、作曲科の人はピアノ上手いでしょう。その次に引くんだよ、恥ずかしいったら……。

太田 どの辺まで進まれたんですか。

観世 バイエルやって、ツェルニーをちょっと弾いたぐらいかな。それが二年くらいまで。三年になって終戦になってからは、僕はいろんなことがすごく忙しくなっちゃってあまり芸大へ行かなくなっちゃったけどね。

太田 そうですか。

観世 芸大にいるときは、自分の声を出したり無茶をすることがいつも出来たということがよかったし、あとはピアノの授業に行ったり、邦楽の他の長唄の科とかそういうところに行ったり……。

太田 他なるものとの出会いがあったということですね。

観世 ええ。三味線のお稽古だってその頃いい先生もみえていたから。それはとてもプラスになった。それから家の祖父や親父がほとんど失業状態だから、暇でしょうがなくて、僕らは稽古をよくしてもらった。戦争のプラスともいえる。

太田 大学の中で教師たちは戦争をどのように捉えていたんでしょうね。

観世 そりゃ先生達は音楽やる人だったりするから、あまりいい顔はしていなかったと思うけれど。それでも下士官みたいな将校が来て軍事教訓はやりましたね。

太田 やっぱりやるんですか。

観世 ええ。浅間や富士の方へ行って野外演習みたいなものがあったんだよ。鉄砲かついで行くんだもの。

太田 それじゃあ一応鉄砲かついだことはおありなんだ。

観世 ありますよ。三八式歩兵銃を。

太田 空襲は随分と被害を受けられたようですね。

観世 ええ、空襲は何度も。三度くらい焼けたのかな。ずっと育ってきた下谷区西町の舞台と家が焼けたのが二月二十五日(一九四五年)ですよ。大雪の日でね。雪が三十センチも積もって大変な日だったんだよ。おばあさんが歩けないからリヤカーに乗せてそれを引っ張って本郷まで行ったのかな。戦前の大曲(おおまがり)の舞台のところへ。

太田 飯田橋のところですね。

観世 ええ。二十日ほどいたかな。その後用賀に三井農園というのがあって、その頃はお芋しか作っていなかったけど、お芋畑じゃなかった時期には皆が行って楽しむような家があったみたいで、そこへ住まわせてもらって終戦までいました。僕ら家族の半分は恵比寿の近所の向山に。今でも観世の本家はそこにあるんですが。そこがまた五月に焼けて用賀で皆一緒になったんです。僕らは用賀では稽古できないし、いつまでもいられないんで多摩川能楽堂へ引っ越したんです。

太田 家も引っ越しなさったんですか。

観世 ええ、家も。楽屋みたいなところに祖父夫婦がいて親父夫婦がいて子供たちがいて。だから大所帯だったんですけど。

 

つづきは⇩

「観世榮夫「わが演劇、わが闘争」②  戦後 —— 他なるメソッドを求めて-

 

観世榮夫(かんぜ・ひでお)
1927年生まれ。能楽師・俳優・演出家。58年に能楽を離脱し、現代演劇、オペラ、映画など幅広いジャンルで活動。79年に能役者として復帰後は、廃曲の復曲上演などにも積極的に取り組んだ。京都造形芸術大学(現・京都芸術大学)教授や同大学舞台芸術研究センター主任研究員を務めた。2007年逝去。
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聞き手:太田省吾(おおた・しょうご)
1939年、中国済南市に生まれる。1970年より1988年まで転形劇場を主宰。1978年『小町風伝』で岸田國士戯曲賞を受賞。1960年代という喧騒の時代に演劇活動を開始しながら、一切の台詞を排除した「沈黙劇」という独自のスタイルを確立する。代表作『水の駅』は沈黙劇三部作と称され、現在でも世界各地で作品が上演されている。また、『飛翔と懸垂』(1975年)、『裸形の劇場』(1980年)など、数々の演出論、エッセイを著している。転形劇場の解散後は、藤沢市湘南台文化センター市民シアター芸術監督、近畿大学文芸学部芸術学科教授を経て、2000年の京都造形芸術大学(現・京都芸術大学)映像・舞台芸術学科開設や、続く2001年の同大学舞台芸術研究センターの開設に深く関わり、日本現代演劇の環境整備に力を注いだ。2007年逝去。
 

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