開演を待ちながら

2002年から京都芸術大学 舞台芸術研究センターで刊行している機関誌『舞台芸術』をはじめとする京都芸術劇場/舞台芸術研究センターのアーカイブの中から、おすすめコンテンツを選び出して掲載しています。自宅で、電車のなかで、そして、劇場のロビーや客席 で、少し時間のあいた時に、ぜひご覧ください。市川猿之助、観世榮夫、太田省吾etc…

『舞台芸術』16号( 2012年3月発行) 特集:変貌するジュネ ― ジャン・ジュネを再発見する より

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舞台芸術』16号(特集:変貌するジュネ―ジャン・ジュネを再発見する)に掲載された 川村毅氏のテキストを掲載いたします。
川村毅(かわむらたけし) 劇作家・演出家

 2003年~2013年ピエル・パオロ・パゾリーニ戯曲集全6作品を構成・演出、日本初演する連作を完結。
※<パゾリーニ・プロジェクト>として『豚小屋』(2011年)、『騙り。』(2012年)、『カルデロン』(2013年)、リーディング『ピュラデス』(2013年)の4作品を京都芸術劇場にて上演しました。

 

パゾリーニ、その実践と方法

川村毅

 
 
 
 
 

 当時、スキャンダラスな映画監督として時代を闊歩(かっぽ)していたピエル・パオロ・パゾリーニは、1975年の唐突な死によって、見事なまでの背負い投げを見せた。技をくらったのは世間であり、恐らくパゾリーニにとってそれは、自身への誤解と偏見に満ちた視線のことだった。

 その死は中断というより切断と呼ぶほうがふさわしい。大ナタが振り下ろされた切断面には生々しい内臓の断面が張り付けられていて、生血が滲(にじ)んでいる。時間が経過するにつれて血はあふれ出て流れるだろう。しかもそれは渇くことを知らない。
 遺体は荒野に放置される。やがて野犬がそれに群がり、自分らの血肉にするために彼の体を貪(むさぼ)る。これはまさしく映画『豚小屋』の映像の一場面なのだが、それを今私たちは作家自身の無意識の予言として見ることができる。日本式な言い方に換言すれば、やはり畳の上で死ねるような人間ではなかったのだ。

 この切断が私に強烈な印象を与えたのだろう、それから長年月の間、私にパゾリーニが棲みつくことになる。

 なぜパゾリーニなのか?なぜ同時期に摂取していた他のヨーロッパの映画監督たちではないのか?フェリーニ、アントニオーニ、ビスコンティベルイマンブニュエルではなく、なぜパゾリーニなのかという問いの答えは切断にある(ヌーヴェル・ヴァーグの監督たちは、私にとってまた別次元の問題系なのでここでは外す)。

 もちろん、これらの映画監督たちの映画、さらに当時観た恐らくすべての映画が深く私に棲みついているに違いない。それらの映像、イメージの記憶の断片を遺産として私は舞台を演出しているといっても多分言い過ぎにはならないだろう。私という人間がいるとして、その存在は多数の映像の記憶の層が人間という形をしてこの世に立っている。からっぽの器にフィルムが焼き付けられたのだ。

 だが、パゾリーニはその棲みつき方が他と比べて異様なのだ。巨匠の時代を送ることなく不意に消えた者は謎ばかりを遺す。緩慢な大作を撮り続けてフェードアウトするのが巨匠の消え様だとして、そこには生肉生血の香りは皆無だ。翻って切断は、遺された者に血肉の滋養を与える素振りをしながら同時に謎を突きつけ、突き放す。突き放された私たちのなかで、それまで抱えていたパゾリーニという謎は、増殖していく。さらに日本という環境下においては、死後ほとんど語られることなく、また外からの情報も途絶えてしまったせいで、謎は肥大化されていった。

 いつしかパゾリーニが演劇に多大な興味を抱いていて、戯曲を数作遺しているという情報を知り、それを上演したいと考えたが、手に入れる術(すべ)も読める機会もなく、つまり中身を知らずに、ほぼ20数年間その思いと望みを抱いていた私の光景もまた異様といえば異様だ。

 ついに2003年、パゾリーニ戯曲のリーディング上演の演出が実現できた。
『オルジァ』翻訳:キアラ・ボッタ、石井惠。出演:手塚とおる西牟田恵。世田谷パブリックシアター、シアタートラム。

 オルジァ、Orgiaは乱痴気騒ぎ、大饗宴。乱交パーティすら意味するタイトルだ。

 すでに首を吊った死体の男のモノローグから始まる戯曲は6つのエピソードから構成される。男のモノローグと妻と思われる女との対話。権力とブルジョア、死と生、セックスが観念的に語られていき、男は顔に化粧を施して首を吊る。

 私は続いて第2弾目のリーディングを計画していた。翻訳者のキアラ・ボッタさんが『豚小屋』を訳し始めていると聞いて、次は『豚小屋』だとその頃から決めていたのだったが、結局世田谷パブリックシアターの諸事情もあり、リーディングの連続の実現は不可能となった。

 さらにその前後に刊行された『パゾリーニルネサンス』(とっても便利出版部)によって、切断後のパゾリーニ、知りたかったその後のパゾリーニ及び存命中紹介されることのなかったパゾリーニの概要を学ぶことが可能となり、切れ切れながら詩人、評論家としての側面を知るにつれて、映画監督パゾリーニ像は現代思想パゾリーニとして焦点が合わされた。

 こうした何周か遅れの私個人のパゾリーニ認識は、映画監督ジャン・リュック・ゴダールがいよいよ本格的にJLGという名の思想として変容していく様を目の当たりにする時期と重なっていった。

 60年代において、ピエル・パオロ・パゾリーニすなわちPPPのライヴァルはまぎれもなくJLGだったという認識が私のなかで正当化された。もっともこの認識は『中国女』、『ウイークエンド』を撮ったゴダールはすでに十分JLGであったという解釈がなければ現実のPPP対JLGの関係性は時期的に成立しない。

 1969年に出版されたキネマ旬報社の世界の映画作家シリーズの1巻はパゾリーニゴダールのふたりを取り上げている。これが単なる偶然か卓見かを問えば、両方の側面があると言えるだろう。60年代終わりに、マカヴェーエフとこのふたりがヨーロッパでは三気違いと呼ばれていた事情からパゾリーニゴダールが並んで取り上げられることは決して奇異なことではないとしても、PPPとJLGの極めて繊細にして神経症的な、愛と嫌悪を往還するかのようなライヴァル関係を編集者は明確には見抜けてはいなかったと推測する。

 

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 そこでやっと映画『豚小屋』でのジャン・ピエール・レオ、アンヌ・ヴィアゼムスキーの立ち位置が理解できる。ふたりはまぎれもなくゴダール組の俳優であり、1967年の『中国女』に出演している。1969年の『豚小屋』が、マオイズムにいかれた学生の反抗を描いた『中国女』への返歌だと理解すると、謎に満ちた映画のように思える『豚小屋』への扉が開かれる。

 さらに映画より構造が単純化された戯曲『豚小屋』を読むと、パゾリーニゴダールへの視座は明らかになる。戯曲はレオが演じる青年の父、鉄鋼王クルップがモデルと思しき元ナチのブルジョア鋼鉄業社の邸宅だけが舞台となる。映画はこの邸宅と中世の荒野で人肉食いに明け暮れる青年とその徒党が交互に描かれ、1970年公開当時ヴェネチア映画祭で観たという大島渚をして「全然わからなかった」と言わさしめる難解さを呈している。比べて戯曲は元ナチの父と青年、父の土地で農業を営む農民たちに焦点が合わされていて、ある意味明解だ。

 青年は父を否定しているが、反抗もまたむなしいと感じている。恋人からベルリンで計画されている学生のデモ活動に誘われるが、それもまた無駄な行為だと思っている。順応も反抗もできない青年は生きる場所を喪失して強硬症にかかってしまう。その青年ユリアンを作者はやさしさを込めて描いている。映画では感じることのできなかった、苦悩する若者への共感が戯曲からは読み取れる。

 1968年3月ローマ大学に近い学生街の通りで起こった学生と警官の衝突の直後、パゾリーニは、『イタリア共産党を若者に!!』というアジテーションとも詩ともつかない短文で、学生たちを批判し、自分は警官の側に立つと明確に書き、言論界に大きな物議を引き起こしている。ブルジョアの子供である学生より、貧しい農村出身者の多い警官の若者に自分は肩入れするという。この態度は終始学生側からの反抗を描いた『中国女』とは真逆の立ち位置であり、ゴダールのそれでは学生の中心人物を演じたレオを強硬症にして黙らせてしまい、農民の豚小屋に入り浸って豚と性交する青年にしているところが、ゴダールへの痛烈な返歌である。

 『豚小屋』のユリアンは、ほとんどパゾリーニ本人の思想を体現していると言っていい。ユリアンにとっての真の革命とは同世代の若者たちによるごっこ遊びではなく、彼の夢のなかで、農民たちの蜂起として語られ、現実には農民たちが育てる豚小屋の豚と文字通り合体することによって、その革命を直に体験しようとする。

 「カルヴィーノなんかが、あなたは近代以前の古き佳きイタリアへのノスタルジーに浸っているだけじゃないか、と批判したとき、パゾリーニは、自分が何かを哀悼しているとすれば、それは古き佳きイタリアというようなものではなく、イタリアという国家的統一もなしにさまざまな諸言語が話されていたトランスナショナルな農民世界だ、という言い方をしているんですね。その上で言えば、それはやはりノスタルジーだし、かれ自身もそのことは認めていたと思います。」(浅田彰パゾリーニルネサンス』)

 「トランスナショナルな農民世界」のイデアは、戯曲ではエピソード8、ユリアンの長いモノローグで語られる。彼の夢のなかで革命家である農民マラッキオーネ役は映画ではパゾリーニが実生活で愛したと言われるニネット・ダヴォリによって演じられている。

 豚との行為はユリアンにとっては純粋な政治的行動なのだが、資本家である父の世代にとっては、単なる変態行為にしか映らない。悲劇的なのは、恐らく彼が敬愛する農民たちにとってもそのようにしか映らなかったに違いない現実にあるのだが、その悲劇を彼自身は知ることなく豚の血肉となって、言わば短絡的に農民と一体となった幸せな彼がいる。無論、資本の側にとってこれらのことは一切合切表に漏れてはならない事実なのだ。それは変態行為の隠蔽(いんぺい)という意味合いだけではなく、農民のほうに消えてしまった青年の存在を資本家たちが消去する目的も含まれている。

 

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 5月の本公演前、3月21日、座・高円寺の地下稽古場で、『豚小屋』のリーディングを行った。パゾリーニ戯曲の本格上演を前にしてより観客という他者にパゾリーニへの理解と興味を深めてもらいたいという趣旨だった。3・11の衝撃と恐怖、不安がまるで消えやらぬ時期の開催だったが、50名ほどの観客たちが集まり、戯曲全編をリーディングした。

 発語された台詞(せりふ)、音の感触を踏まえて私は上演台本の作成に取り組んだ。この時からパゾリーニ戯曲の上演はこれをスタートとして連続させたい意向であり、まず第1弾目ということで、パゾリーニ自身の紹介も織り交ぜたい意図から、詩の一節やフランコ・フォルティーニ、ジョン・ハリディのパゾリーニへのコメントなどを装置に投影した。

 「PPPの書くものはすべて、対照法と矛盾に根ざしている」フォルティーニ。「彼が興味ある映画監督として注目されたのは、解決ではなく、矛盾を表現することにおいてすぐれていたからである」ハリディ。

 さらに人肉食いの青年のエピソードとユリアンの物語が交互に登場するという映画の構成を取り入れ、しかし、伊藤キム演じるこの青年は現代の東京のホームレスで困窮の末に人を殺し食うという設定にした。伊藤キムが人肉を食べる場面では装置には『資本論』の引用が延々投影され続けた。

 次に私が目論んだのは、JLGの影を盛り込もうということだった。エピソード8におけるユリアンのモノローグの場面では、その台詞に呼応するかのように人食いの野人伊藤キムが、縦横無尽に踊る。設置されたスピーカーからはさらにモノローグが被さるように流される。思索的なフランス語のつぶやくような、それでいて挑発するような語り。JLGの『映画史』におけるナレーションである。

 戯曲では登場しない天使も配し、オリジナルの戯曲の核を決して崩さないことを厳命として、私の演出意図はパゾリーニと反資本主義の思想、その思想の先に私たちが思索しなければならないことを盛り込んだ、丼を観客に試食していただくことだった。

パゾリーニ丼、へい、お待ち!

 折しも、日本人は未曾有の震災に立ち会い、これまでのシステムについて考え直さなければならない局面に立たされた。この時期に偶然にもパゾリーニの台詞と思想を呼び起こす作業に立ち会っていることに、不思議な縁と静かな興奮を覚えている。

 ラストの演出、高橋由一の『鮭』が舞台前面にせり出してくる意図とは、パゾリーニイデアと関わっている。無論そのイデアが今現在有効に機能するかは、これからの時代との闘争に、私たちがそれを本気で武器とするか否かに関わっている。

 イデアパゾリーニの言う過去の力に裏打ちされたイタリアであり、それを日本に置き換えると『鮭』の昏さ、近代以前もしくは前近代と近代の狭間のローソクの明かりに照らし出される鮭の画があたかもつつましやかな武器のように、私には映ったのだ。

これからほぼ1年半をかけて、パゾリーニ戯曲の上演は続けられる。『騙り』、『文体の獣』、そして最後に大作『カルデロン』。

これでひとまず終わりとなる。

死者とともに先に進もうと思う。

 

 

【京都芸術劇場での関連企画】
2020年6月に春秋座にて予定しておりました川村毅作・演出『4』 は、新型コロナウイルス感染拡大防止のため中止とし、来年2021年8月に延期上演の予定です。どうぞお楽しみに!
http://k-pac.org/?p=9578

 

川村毅(かわむら・たけし)
1959年東京生まれ。劇作家・演出家。ティーファクトリー主宰。近年の主な作品に『ノート』(『わらの心臓』併録2019年論創社刊)、『エフェメラル・エレメンツ』(『ニッポン・ウォーズ』併録2017年論創社刊 )など。ほか著書に、エッセイ『男性失格』(イースト・プレス)、演劇論集『歩きながら考えた。』(五柳書院)など多数。『新宿八犬伝 第一巻 ─犬の誕生─』にて1985年度岸田國士戯曲賞を受賞。『4』にて2012年度文化庁芸術選奨文部科学大臣賞受賞、第16回鶴屋南北戯曲賞受賞。http://www.tfactory.jp/

 

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