開演を待ちながら

2002年から京都芸術大学 舞台芸術研究センターで刊行している機関誌『舞台芸術』をはじめとする京都芸術劇場/舞台芸術研究センターのアーカイブの中から、おすすめコンテンツを選び出して掲載しています。自宅で、電車のなかで、そして、劇場のロビーや客席 で、少し時間のあいた時に、ぜひご覧ください。市川猿之助、観世榮夫、太田省吾etc…

『舞台芸術』20 号(2017年4月発行)特集:〈2020年以後〉の 舞台芸術 より

f:id:shunjuza:20200519120653j:plain舞台芸術』20号(特集:〈2020年以後〉の 舞台芸術)に掲載された特別対談をお届けします。
渡辺保(わたなべ・たもつ)演劇評論家
渡邊守章(わたなべ・もりあき)演出家、フランス文学研究者
進行:天野文雄(あまの・ふみお)能楽研究者


 

 

背負っているものの違い

保  近代化の実体は何ですか。演技、演出、観客、演劇観などについていかがですか。

守章 一つは、六代目菊五郎だけで近代化を見ていると、すごいものを全部読み直して、もう一つのすごいものに作り上げた、作り直したみたいなイメージがつきまとうのではないですか。

保  そうですかね。

守章 しかし、歌右衛門の場合にはそうではない。身体的なハンディをコードなり、パフォーマンスに成立させるために彼がやったことで、必ずしも観念的な解釈ではなく、身体で表現する解釈の中で、踊りであろうと、世話物であろうと、どんどん取り入れていってしまう。発明といってもいいくらいの身体性です。だから近代というよりは近代性と言った方がいいと思うのだけれど、歌舞伎の方が、「近代」というものに非常に似ているというか、接近しているというか、重なってくるのではないかと思うのです。それが梅幸では方程式的なところで止まってしまった。

保  それはいろいろ議論のあるところですけれどね。

―― 先ほど梅若実の例があって、それは六代目革命の一例にもなるわけですね。

保  そう思いますね。

―― ただ、梅若実の場合は、能界全体の中でかなり特異な存在で、どちらかというと非常にリアリズム的な芸風だった。

守章 そうですね。

―― 近代化ということをリアリズムで説明できるかどうかですね。

保  でも、観世寿夫というのも近代ではないですか。

―― ですから近代もまた内実が違うのではないかと思うのですが。

保  内実といっても、梅若実の背負っている能の歴史みたいなものと、観世寿夫のもっているものの違いではないですか。そういう分量の違いであって、やはり同じじゃないですか。

―― 質も違うように思うのですが(笑)。

保  質とか、量はたぶん違うと思います。野口兼資(のぐちかねすけ)、櫻間弓川、梅若実喜多六平太、あるいは観世華雪を見ると、ここはみんな近代だと思うのです。その質の差はある。背負っているものの違いはある。けれども、やっぱり面(おもて)の中で泣いているのですね、みんな。

―― 寿夫もですか。

保  泣いていると思います。

守章 寿夫さんは泣かないって言ってましたよ。

保  いや、それは泣かないって自分が言ってるだけで、客から見ると泣いているんですよ。

―― それはたいへん興味深いお話で。

守章 「居グセ」のときにどうしているのですかと聞いたら、知らん顔してる方がいいんだよと言っていた。ただし、観世寿夫が近代でないと言うつもりはなくて、梅若実が体現しているものだけが梅若流だとは思いませんが、10代の私が感動したようなものではいけないということを、寿夫さんはあるとき決めてしまうわけです。

保  それはわかります。梅若実とか喜多六平太に至るまで、私が挙げた方々は、六代目も含めて近代のとば口なのですね。観世寿夫になると、近代の出口なのです。この違いですよ。でも同じ近代には違いない、入口と出口の差はあっても。つまり観世寿夫がいたから、次の能の世代の現代化が起きるのでしょう。今は僕たちは能舞台を見ていても、作品を見ていても、昔のようには能を見ていないですよ。趣味的に見ていない。歌舞伎も同じなんだけど。

―― 観世寿夫の影響だとおっしゃりたい?

保  観世寿夫というような人がいて、能は演劇の一ページになった、それが現代化です。そこで現代的な能が出てくる。寿夫さんみたいなポジションをとって、世阿弥のことを考えることで、梅若実とは当然違う視点が出てきて、それが現代につながるのであって、出口なのです。出口だけど、では観世寿夫は近代ではないのかと言ったら、僕は断然近代だと思う。あの人の『通小町』を見ていたら、人間以外の何者でもない。昔の人の能は、これが人間かと思われたけれど、今の人は人間であることが当たり前だというのです。

守章 とくに晩年はね。

保       そうそう、僕はそう思う。

―― 守章先生が考える観世寿夫の近代性というのはどういうことでしょうか。

守章   能の現場の人で比較的親しくつき合ったのは寿夫さんだけです。ある時期の寿夫はほとんど全部見ていて、その前後の作業の仕掛けなどまで含めて見ている。直接議論をしたり、そういうことがあったのも、役者は寿夫さんだけです。

 だから、保先生がおっしゃった「近代の出口」だという意味は、よくわかる。ただし、それは時間軸で観世寿夫が徐々にどうなったという話ではなく、あの人の場合には波というか、サイクルがあるんです。私がフランスの留学から帰ってきた後で、批評家に「無機的な能」などと言われていたような時期がありました。ところが、「冥(めい)の会」をやる頃になると、突然変わってしまうのです。それが、あの人のすごいところで、シテ方で、しかも鎮仙会劇団といわれるぐらいに全体を仕切っているわけだから、その全体を変えてしまう。にもかかわらず、あの人の身体についた抽象的なものとか、様式的、形式的と言ってもいいのだけれど、それは必ず残る。だからといって突然、能が近代劇になるわけではないのですけれど、「冥の会」をやり出した頃には、明らかに変わる。

保  変わりますね。

守章 ある時期は、本当に抽象的なものをやろうとしたり、いつでもそうなのですね。

保  でも、そのこと自体が近代なのですよ、抽象化しようとか、そういうこと自体が近代なのです。人間から離れられないのだから。

守章 ただし寿夫さんの場合には、また突然にほとんど新劇みたいになったりするというところが、あの方の不幸だったかもしれない。それに手を貸したわれわれは犯罪的なのかもしれない。

―― それは「冥の会」の影響だったのですか。

保   「冥の会」ですね。僕は、寿夫さんの『クリテムネストラ』はとてもおもしろかったですよ。

―― それから寿夫がその後辿った軌跡はまた違うわけですね。

保  それは近代の本性が出てきたのでしょう。私は『トロイアの女』にしても、そう思っています。

―― もう一つ、保先生におうかがいしたいのは、文楽の山城少掾の近代の内実のようなことです。

保   あの人は本当にリアルに、シャープにやって、近代性を推し進めた人ですね。文楽の、浄瑠璃の語り物としての性格に、能も歌舞伎も同じですけれど、文楽は山城が、能は寿夫さんが世阿弥へ戻るように、原点へ戻ろうとしたわけです。そのことによってきわめて規制がかかっているから、近代性とのバランスということが、六代目菊五郎とか、山城という人は非常にうまくいったのだけれど、それから後の弟子たちが問題です。文楽には次の世代の現代性を獲得するとば口になる観世寿夫みたいな人がいなかったから、いまだに文楽人形浄瑠璃は低迷しているわけですよ。

 

創作、芝居のツボを知らない

―― 伝統演劇における新作の話に移りましょうか。

保  能も歌舞伎も新作はやっていますけれど、古典演劇に関して言うと、致命的なのは、現代が何でもありの世の中ということ、規範がなくなったということです。それから能の劇作家がいないということです。新作能でも創作能でも、ご覧になっておもしろいものがありますか。

―― いわゆる新作能は、一回見たらそれでいいなという感じです。主張はわかるけど、おもしろくない。

保  おもしろくないでしょう。それはなぜかというと、第一に劇作家としての力量が足りないからですよ。第二に興味のもち方が趣味的であって、演劇的ではない。

―― 狂言のほうはまあ成功していますが、能は既成の能の「なぞり」の域を出られない。

保  狂言では、たとえば『彦市ばなし』は昔からあるし。2015年12月の『楢山節考』だってちゃんとしているものだからよいのだけれど、新しい物語を作る語り手がいないということです。能も、歌舞伎も、文楽も。

―― その理由はなんでしょうね。歌舞伎の新作もそうですか。

保  ご覧になったら、二度と見たくないというものが多いですよ。

―― 新作の上演の割合は、現在はどんなぐあいですか。

保  明治以降に作られた新歌舞伎も含めて、過去のものの方が多いのではないですか。

―― 明治期のものも古典なのですね。

保  もう古典ですよ。岡本綺堂だって古典です。ただ、私が言いたいのは、劇作家がいないと同時に上演台本を作る人がいないということです。

 たとえば、復活狂言をしようと思って、江戸時代に書かれた台本を上演しようとしても、できない。近松のものだって上演できません。それを現代の観客にアピールするために上演時間の中で縮めてやろうとすると、役者のしどころを削ってしまう。要するに劇作家が役者についての関心とか、芸についての関心とか、方法論的なものについて無知だということです。そういう劇作家が多いから、あるいは補綴者も多いから、いい上演台本ができないのですよ。

 守章先生は、クローデルの『繻子の靴』をおやりになっても、役者がみんな満足するようなよい上演台本をお作りになるからよいのだけど。そういう上演台本を作る人がいないことは、古典芸能にとって決定的だと思います。

守章 わかりにくそうなところをみんなカットしてしまう。それだから、味も素っ気もない本になってしまっている。歌舞伎の言葉というか、舞台の言葉についてのセンスがまったくない人が本を書いてる。

保  それは舞台の言葉にセンスがないというのではなくて、私は芝居のツボを知らないのだと思いますよ。

守章 いや、そういうことと同じです。

保  言葉というのは台詞という意味じゃなくて、演劇言語という意味ですね。それはそのとおりです。

守章 これは由々しいことですよ。創作の話は、自分で書いてる手前、あまり大きなことは言えないのだけれど。世阿弥ものでも現行でなされているのを見ていて、「引用の綴れ錦」とか言われたように、本説になるテキストがあって、それをうまく取ってきてつなぎ合わせていくというのは、能作術が考え出したすごいところだと思うのです。世阿弥はそういうのがすごくうまかった。

 自分としてはそういう方法でやろうと思って、クローデルの書いたものから出発するようにしたのです。うまくいったかどうかわかりませんし、『薔薇の名―長谷寺の牡丹―』について、保先生は何度も、あの花は何の花だかわからないということばかり問題にされていて、銕之丞の「序の舞」の素晴らしさを認めようとなさらなかった(笑)。

保  ほんとにそうですよ(笑)。守章先生は別に劇作家じゃないからよいですけどね、本職の劇作家が問題だと思ってるわけ。

 

能の客は礼儀正しい 

―― その場合に、まったくゼロからといいますか、新しく丸ごと作る場合と、従来ある古典作品を補綴する場合と、両方に言えるわけですね。

保  当然です。テキストレジーがうまい人は、本職の劇作家としても立派な仕事をしますよ。本職の劇作家が補綴すると、必ずしもテキストレジーはうまくないかもしれないけれども、ある程度はできるでしょう。しかし、本当にみんな、つまらない新作能によく黙ってると思う。能の客は、みんな礼儀正しいんだなと思う。

―― それは声を大にしてというか、活字を大にして書いていただきたいですね。

守章 必ずしも能でやる必要のないものを無理して能でやっているものが多すぎるから、いけないのではないですか。

保  それもあるでしょうね。

―― なぜあんなに能という形式にこだわるのかなという感じがしますね。

保  外からだと魅力的に見えるんですかね。それは様式だけ見てる人の、誤った視点です。

―― そうだと思います。歌舞伎は江戸時代からのものですけれど、能はもっと昔の演劇ですから、世阿弥の時代と現在では、文化環境がまったく違っている。新作能がうまくいかないというのは個人の能力の問題ではなく、時代の文化的な環境などからしても無理なのだと思います。

保  どうしてですか。

―― 習慣、発想、風俗、すべて違いますから。それと同じようなものを作ろうとすると、どうしても表面的なものになる。

保  でも、新作能を作った場合に、話がおもしろければ客はついてきます。表現もおもしろくなくてはならないけれど、その話の素材そのものがおもしろい切り口をもっていればついてくるでしょう。

―― いちおうはね。

保   話のおもしろくないものが、表現の切り口だけでできるわけがないです。それでは、話のおもしろいものがあるのかといったら、私はないと思う。

―― それは新作能においてですか。

保  そう。 歌舞伎でもそうでしょう。おもしろくならないのではないかと思う。それは守章先生のおっしゃるとおりです。

―― 私は能に関しては、いくらおもしろい話を思いついたとしても、能という様式の中でそれを実現することは、現代ではもはや文化的に無理だと思っています。これは個人的な能力とは別の問題で、いかなる才能の持ち主であっても、それは無理だと思う。つまり、能の演劇様式としての生命は、もう500年ほど昔に終わっている。新作能を作る場合は、そのことを自覚する必要というか、覚悟がいると思います。才能がある人は思いきって能から離れたものを作ればいい。

― そう思います。それも思うけど、現代演劇の中でも、とても優れた作品を書く人と、全然戯曲そのものも読めないでテキストレジーをやってる人が多いんです。その人のテキストレジーのために元の戯曲が損なわれるケースがあまりに多い。歌舞伎や能だけではなく、現代社会の中で劇作というものが難しくなってきているということなら納得できるのですけれど。絶望的だと言われると、それはちょっと困ります。

―― 現代はポストモダンですから、それで何でもありの時代だという、そういうことと重なっていると思います。

保  そうですね。規範がなくなったのは大きい。

 

創作能に驚きがない

―― 今日は伝統演劇がテーマですが、現代演劇の行方も気になるのですが。

守章 創作能、新作能に関しては、私は寿夫さんに何年か謡を習ったことはありますが、能を一曲ちゃんと所作まで含めて習ってはいないですから、客として見ている。歌舞伎だって同じことです。だけど、自分で書いていて、『内壕十二景』のときは、観世栄夫を二日間、軽井沢に缶詰にした。節付けと所作入りのテキストを作るときにどういうことを観世栄夫がして、またそれを一座のところへ持っていったときに、どういうリアクションをするか。客はそのようなことは知らないからいいのですが、それがすごくおもしろかった。これは一種の集団制作ではないかと。ただし、その集団制作が、下手をするとルーティン、ルーティンと、楽なところ、楽なところへとなる。

 それで二番目(『薔薇の名』)のときはもうちょっと作戦を考えたんです。世阿弥だって和歌の選集から何から、やたらと引っ張ってくるわけだから、私もクローデルのそれを引っ張ろうとした。後は漢詩もどきのものを引っ張ろうとしたんです。俗に言って、食ったものが出るということがある。洋物をやっているとあまりわからないで済んでますが、和物をやると私の食ったものは能ではなくて、江戸時代の歌舞音曲なんだとわかる。「道行」の文章を書いていて、常盤津(ときわづ)みたいになってしまうのです。これはいけないなと思って、ずいぶん直す。

保  食べたのは江戸時代のものではなくて、私は、フランスの食べ物かと思ったんですが(笑)。

守章 いやいや(笑)。フランスの食べものはフランス語ですから、フランス語じゃなきゃだめです。使い物になりません。

保  守章先生の創作能は『十二景』と『薔薇の名』の二本だけですね。 守章先生らしさが出ていなくて、客席から見ていて創作能として驚きと発見がないんです。渡邊守章さんでなければだめだ、これが守章さんの真骨頂であるというのが出てこなくてはいけない。『編子の靴』とか『ロレンザッチョ』は、おもしろいのですが、創作能の二本に関していうと、驚きがないんだ。

―― 守章先生、いかがですか。

守章 はい、うかがっておきます。

保  なんか、元気がないですよ。新作能をやる人は、それだけの衝撃を観客に与えてほしいというのが僕の願いなのです。

―― 守章先生の創作能は、今の能と同じようなものを作ろうというのではなくて、それから距離を置いたものを作ろうという立場かと思いますが。

守章 自分のことではないから気軽に言いますが、新作能を見ていると、シテ方が新しい作品をやりたいと思うことと、囃子方が思うことという二つの系統があります。横道萬里雄先生の『鷹姫』は、寿夫さんが当時の万之丞(現・萬)と一緒に作曲しました。最後のときなどは、驚くべきことに暗転して、みんな非常口からぞろぞろ出てきて、それで暗転で全部引っ込む。そういうのは馬鹿馬鹿しいなと思った。

 最初のバージョンは日本にいないときだから、帰ってきてから見たのだけれど、なんだかバードマンみたいな仮面をかぶって出てくる。ワキはコロスじゃないんだから、花道からぞろぞろ出てこなくたっていい。出てくるのだったら、きちんと拍子をそろえて出てきてほしい。私もそう言われるかもしれませんが、やはり横道先生は学者であって、芝居のことがおわかりになってないなあと思った。

 『鷹姫』はパリに万作さんが持ってきたから、私が解説もしました。私は、嫌いなんですが、あれに関わった囃子方はすごく好きなんです。それで、泉が湧いてくる所の手は、普通の能の表現の手ではないのだそうですけれど、あそこがすごくおもしろいと言うんです。それはそれでけっこうですけれども、演奏会じゃないのですから、そこだけ良くたって、物語がちゃんと成立していなかったらしようがないと思う。そういう誤解がいっぱいあるのではないかと思います。

 『鷹姫』は寿夫さんと万之丞、横道さんがいて、音曲がある部分では新しく立ち上がったんだろうけれど、能役者だからといって作曲ができるわけではないでしょう。要するに、綴れ錦ではなくて、ナイロンのスカートみたいなものの寄せ集めみたいになってしまうわけです。それでしたら、何も能でやる必要はないのではないか。私は新作能とか創作能は二本作りましたけれど、限界だと思っています。

保  どういう意味ですか。

守章 これではないことをやったほうがいいと。

保  それはそうですね。賛成です(笑)。

―― 新作能について、かなり否定的な意見を申し上げましたが、現代の能界に対する刺激剤には十分なると思っています。再演ではなく、初めて作られたものは、やはり見ておきたいという気持ちはあります。

保  期待していらっしゃると、たいていはぐらかされますよ。

―― 中には良かったという人はいますから、不思議です。

保  先生はどうなんですか。

―― 私は、まあ、一回でいいという感じです(笑)。

守章 私は、私自身の経験として、二本作ってよかったと思うのです。参加した人たちもそれなりに満足はしていると思うのですが、金賞を取ったとかいう感じはしない。たいへんですし、お金もかかります。

保  それは作者としての渡邊守章が苦労する話ではなくて、プロデューサーが苦労することでしょう。

守章 残念ながら、私はプロデューサーでもありましたから。

保  そうそう、兼任には無理がある。

 

今来ている危機は内部崩壊

―― 次にお話しいただきたいのは、批評のことです。保先生、批評の現状についてはいかがです。

保  それよりも、今日は言いたいことがあります。戦後70年のうちに、いろいろな危機が能にも狂言にも文楽にも歌舞伎にもありましたね。お客がこないとか、マッカーサー司令部がやってはいけないと言ってるとか。でも、その危機はすべて外部から来ている。今来ている危機は内部崩壊なんです。何でもありの世の中になって、守章先生がおっしゃったけれど、新作を作ったときに囃子方が喜ぶとか、シテ方が喜ぶとか、とんでもないと思うのです。

 なぜかというと、能はシテ方一人で立ってるわけですね。それは観梅(かんばい)問題とかいろいろあるかもしれないけれど、やっぱり地謡方はみんな、言葉は悪いけど、奴隷です。奴隷でなければならない。能というのは、そういうヒエラルキーでできている。歌舞伎も同じです。

守章 でも、歌舞伎ほどではないのでは。

保  ただ、何でもありの世の中になったら、現在は表現上の何でもありと、幕内の、制作上も何でもありというようになってしまっている。これは内部からきているのだから、ものすごい崩壊の危機だと思います。 

 簡単に言うと、立役をやっていた人が女形をやったり、女形をやっていた人が立役をやったり、役柄が乱れれば、それだけでシステムが稼働しなくなるわけです。その稼働しなくなるということを、批評の問題に絡めて言うと、能・文楽・歌舞伎のそれぞれの方法論というものを、演劇論的に検証してないということです。一方では社会自体の規制の緩和ということがあるのだけれど、規範がなくなった大きな理由は内面にあると思うのです。これは、古典演劇にとってはものすごい打撃だと思う。天野先生はどうお考えになりますか。まもなく能は滅びるのではないですか。

―― 保証はないですね。700年続いたからといって、これからも続くという保証はどこにもない。そういうことを私はいつも言ったり、思ったりしてるのですけれど、内部崩壊ということは納得しました。

保  表現についての感覚がずれてきている。システムが作動しなくなると、当然崩壊します。やってる人たちが、自分のやってることに対して、演劇論的な手続きで方法論を検討していない。

―― いないですけれど、それは前近代からもそうであったのでしょうか。

保  前近代は知らなくてよかったわけです。時代がそういう時代だった。

―― 近代を迎えて、それが必要になって、その規範が、今、崩れた。

保  今はなくなってしまった。そうしたら内部崩壊となるのだから、たいへんな危機なのではないですか。そうすると、形としては残ると思うのだけれど、演劇的な表現のレベルを確保できなくなる。

―― 能に関しては、今やかなりそういう形になっていますね。

保  そうなれば、これから観客も減るだろうし。それなのに、2020年のオリンピックの芸術展示などといえば、みんな能とか狂言とか歌舞伎とか言うじゃないですか。そうしたら本当にただのさらし者ですよ。日本の本質は理解されない。そのことが非常に大きな問題としてあると思うのです。それは批評家がやらなければいけないことなのでしょうけれど。

 何でもありの世の中というのは、要するに目に見えるものしか信じないわけです。金を儲けるためにとか、誰でもわかるのでないとダメになってきたという、社会の現状じゃないですか。

―― そういう内部崩壊的なことを指摘する批評家もいない。

保  いませんね。

 

国立劇場の企画が問題

―― 国立劇場は、歌舞伎が一番早かったですね。

 それからだいぶ遅れて能楽堂文楽劇場がほぼ同じ時期にでき、そのあと第二国立劇場。沖縄もできましたね。国が支援を始めたわけですけれども、これについての功罪といいますか、その影響といいますか。あるいは国立ならではの企画みたいなものも当然あったと思います。

保  イギリスだと、国立劇場は二つある。その国立劇場はウエストエンドの商業資本も投資しているんです。たとえば『レ・ミゼラブル』というミュージカルは、RSC(ロイヤル・シェイクスピア・カンパニー)で初演したものを、ウエストエンドが引き受けて、あれだけ巨大なミュージカルになったわけです。これだけではなくて、他にも同じ例がいくらでもあります。

 日本でも、初期の三宅坂国立劇場では、猿之助(猿翁)が『義経千本桜』で初めて宙乗りをしました。戸部銀作が四代目小團次の演出を復活したいというので、この演出を考えたわけです。その後、猿之助宙乗りは、松竹がやっている。金が儲かりそうもないけど、珍しくておもしろそうなものを国立劇場が作って、それを松竹が利用させてもらうという、ロンドンと同じ形式になっていた。それが全然なくなってしまった。それについては、最近の国立劇場の企画が問題です。企画力がなくなった。

 それから、昔は理想があった。通し狂言と復活狂言をやるという二本柱があって、曲がりなりにもそれを支える知性がありました。加賀山直三、戸部銀作、利倉幸一など、そういう人たちが一生懸命やったから、その理想が実現に近づいているのだけれど。

 これは国立劇場がもう一度考えなくてはいけない問題だと思う。50周年で『忠臣蔵』をやるのは、誰でも考えられるではないですか。もっと国立でなければできないというもの、吉右衛門の「岡崎」みたいなものもありましたが、もっといろいろ考えて、それが松竹で実現すればなおいいことですし、歌舞伎のレパートリーが増える。それが課題だと思います。

 

個人の努力が足りない

保  後継者の養成をやってるのはなかなかいいと思います。ことに、音の会の『合邦』の竹本を聴いたのですが、とてもよかったですね。

―― 国立の歌舞伎の養成ですか。それは家の子弟ですか。

保  そうではなく、一般募集です。能もやってるでしょう。

―― 能もやっています。東京は国立能楽堂ですね。大阪と京都は養成会の事業です。国立はシテ方の養成はしていず、三役(ワキ、囃子、狂言)だけです。

保  囃子方もそうですか。

―― そうです。しかし、応募する人は減ってきているようですし、続かなくなったりすることもあるようです。

守章 プロの子弟がそこにいたならば、それは違うでしょう。

―― 能の場合には発表会があって、それに研修生が一堂に会することもあります。東京、大阪、京都合同の発表会も年一回、夏に行われています。そういうところで交流するのは意味があると思いますが、歌舞伎も同じようなことでしょうか。

保  そうです。歌舞伎はその発表会とともに、下回りの役者が現場に配属されてますから。芝居は下回りがいないとできないですからね。

―― 養成出身者というのは、だいぶ増えてるのですか。

保  いないとできないですよ、松竹は。

―― 文楽もそうですか。

保  文楽もそうです。

―― そこへ行くと家の子が多い能はだいぶ事情が違いますね。

保  企画の透明性が必要ですね。新国立劇場で新しい芸術監督を選ぶにしても、こういう委員がいて、この人が答申をして、この人を選んだということをちゃんと透明にしないとね。それから、どうしてこんな企画が出てくるんだと思うものがたくさんあります。国立劇場は他の商業演劇と違って、そういうところの透明度が必要です。小川絵梨子はこれからすごくいい演出家になるのだろうけれど、それがあの国立劇場でダメになってしまうおそれがあって、とても私は心配しています。

守章 新国立の問題と、旧国立(三宅坂)とは、非常に問題が違っていて、新国立のことだといくらでも言うことはあります。三宅坂に関して言うと、今から3、40年前ぐらい、木戸敏郎先生がいらしたころは木戸先生の趣味だとしても、雅楽の新作を発注したり、『道成寺』ものを比べてやるとか、けっこう芸能史的にも、比較芸能的に言っても、本公演とは別におもしろい企画がありました。

保  そうですね。

守章 その部分がまったくなくなってしまった。

保  企画が平凡になってきている。

守章 国立劇場の問題はすごく重要なのですが、たとえば文楽の場合でも、三業のうちのどこがうまくいっていて、どこがうまくいっていないかについては、ほとんど基本的な答えはとっくに出ているわけです。

 昔、栄夫さんと対談したときに言ってたのだけれども、外から見てると人形遣いはたいへんだろうと。20年やらないとできないとかいう神話があるけど、そのようなことはなくて、意外と人形遣いは育ってしまう。三味線も、それなりに育つ。ところが太夫さんは育たない。太夫さんが育たないということは、結局、言葉です。浄瑠璃の言葉というものと節と、芝居の息というのがつかめないのです。それを養成という形ではどうもできないらしいということを、ずいぶん前に栄夫さんと対談したときに非常に強く言っていました。

 言葉というのは、なにも字に書いた言葉だけではなくて、身体から出てくる言葉、なおかつ、それを受け取ってどうなるかというものであって、その言葉の問題をないがしろにしてきたことが、伝統演劇にも、現代劇にも、今や呪いとして降りかかっているのではないのでしょうか。

―― それは私も同感なのですが、途中からその世界に入った人の場合は、やはりそれなりの困難があるようですね。

保  守章先生がおっしゃった浄瑠璃太夫がうまくならないというのは、そのとおりで、現状はたいへんだと思います。それはもっと個人的な努力が足りないのではないかという気がする。浄瑠璃は他のものと違って、山城少掾といったって、綱大夫だって、みんな全集が残っています。それをもっと聴いたらいいのではないかと思う。そうすれば義太夫の息だって、言葉遣いだって、初演の風だって、一生懸命に聞き込んだらわかるはずですよ。それをしないで、あんなデタラメな浄瑠璃を語っている。現代の文楽の問題は単なる勉強不足だと思います。

―― 人形に比べて難しいのではないでしょうか。

保  いや、それは逆です。三味線は三業のうちで、今でも比較的レベルが高いのは、相手が器械だからです。浄瑠璃というのは自分勝手に語れるわけです。だけど、三味線はちゃんと弾かなければ音がしない。

―― 規制があるわけですね。

保  強い規制があるから、何でもありではダメなんです。それは、個人的な努力しかないと思います。

 

おもしろくないものが多すぎる

―― 最後に一つ、現代の大きな課題として普及という問題があります。能に関わっているので余計に感じるのかもしれませんけれども、歌舞伎はとくに普及を意識的にする必要はないような状況ですね、かなり人が集まっていますし。

保  でも、本当の歌舞伎には集まっていません。本当の歌舞伎というのは、たとえば吉右衛門仁左衛門玉三郎幸四郎菊五郎などという芝居に客は入らない。染五郎猿之助とかには入っていますが、彼らだって本当の芝居をやったら入らない。本格的な作品をやったら、お客はこない。

―― 歌舞伎でも普及は大事。

保  それは大問題ですね。

―― 能は本格的だろうが何だろうが、普及が必要な状況です。

保  どれぐらい減っていますか。

―― なかなか数字では言えませんが、確実に会の数が減ってますね。

保  お金がかかりすぎではないですか。会というのは、一日だけですね。個人の会をやろうと思ったら、その会のために500万円ぐらい要りますか。国立能楽堂は600人ぐらい入りますよね、1万円だってツーペイになるかどうかです。それはなかなかやらないでしょうね。

―― 謡本の販売数もずいぶん減っているようです。

保  それは稽古している人がいないからでしょ。

―― いてもコピーで済ましたり、深刻なようです。それはそうとして、歌舞伎はそういう2種類のものがあって、本物についての普及が必要であるということですね。

保  とても難しいですよ。

―― 能は全面的に普及が必要な状況で、関係者は危機感をもっています。文楽も能と似たようなところがあって、東京は公演ごとにいっぱいらしいのですけれども、大阪はとくに夜は入りが悪いようです。

保  大阪はそうですね。

―― 文楽や歌舞伎も高いレベルでの普及が必要だと思いますね。

保  能はどうやったらいいですか。

―― 私は研究者ですから、本格的なものを、いい役者で、いい舞台を見せるしかないと思います。加えて、保先生も強調されていると思いますけれど、テキストがもっと重視されるべきですね。

保  そうですか、演じる側もそうですか。

―― あのように難しい文句ですからね。すると、残るのは結局、パフォーマンスになる。パフォーマンスが唯一の魅力になる。一方、詞章にみごとな工夫とか、趣向とかが凝らされているのに、気づかないで見られているのはもったいないと思っています。

保  横浜能楽堂で、スリーステージというのを見ました。最初に三田村雅子さんの『源氏物語』の講義があって。そのあと、馬場あき子さんがお話しになった。今度も、梅若玄祥の解説、芸談があって、一時間半の休憩がある。それから本番になる。

守章 そんなに長いんですか。

保  朝10時に行くんです。おもしろいのだけれども、もう少しコンパクトにすべきです。

―― 横浜能楽堂はかなり、いろいろと工夫を凝らしてますね。

保  だけど、先生がおっしゃるように、本質的なところ、このテキストはここがおもしろいんだよ、こういうところがおもしろいんだよということを、もうちょっと突っ込んでほしいですね。たとえば『源氏物語』の「葵上」の大事なところは、六条御息所が皇太子妃だということです。皇太子妃であって、未亡人であるということを言わないと、実演につながらない。

―― なるほど。この間、春秋座で大槻文蔵さんを呼んで、演者と研究者の立場で『景清』を読みました。後からアンケートを見ましたら、だいたい好評だったのですが、いちおう、全部飛ばさないで読んで、大槻文蔵さんの解釈も聞いて、部分的には大槻さんに謡ってもらって、所作もしてもらった。それを一行も飛ばさない方針でやったのですが、私は、能のテキストを読むときには棒読みで、アクセントをつけないで読んだほうが、一番能にふさわしいと思っているので、その時もそうしたのですが、アンケートの中に、能が観られると思っていたのに、テキストを読んでばかりだったとか、読み方も棒読みだったというのがあって、ガックリしました(笑)。

保  最後に本番があるんでしょう。

―― そういう会ではなく、日本芸能史という連続講座の中の一つだったのです。そもそも、入場料は1000円ですから。

保  先生と大槻文蔵さんの対談だけで1000円。

―― 高いですか(笑)。そこには大槻さんの謡や仕舞、さらに大槻さんの役者としての理解、研究者としての私の理解も入る。それを部分じゃなくて、一曲丸ごとを理解してもらおうというのが私の目論見だったのですけれど。

保  どれぐらい入りましたか、お客は満員ですか。

―― 500人くらいです。今年は春秋座の15周年ということで、例年より多かったのです。ああいう反応は少数なんですけれど、課題は大きいという感じがしました。

 

内部崩壊を切り抜ける道

保  戯曲を読む姿勢が足りないからね。スタッフにも、キャストにも、観客にも。

―― そのあたりで、守章先生には、何か主張があるのではないでしょうか。

守章 能は言葉がわかったほうがいいと、今のことについて言えば思います。それから、囃子のワークショップみたいなことがもっとあってもいいかなとは思います。なかなか実際に劇場を使うとなると難しいけれど、単なるデモンストレーションでも、もっとやってもいいと思います。大倉源次郎、亀井広忠たちと、パリでやったときはすごく盛り上がりました。

 これはある程度自己批判でもあるのだけれども、あるものにしか目が行かなくなってしまっているのではないでしょうか。この人がこれをやるならば行くけれど、これでは行かないとか。というのは、一つには能とか狂言の会が多すぎるからです。

保  それは多すぎたっておもしろければいいのだけれど、おもしろくないものが多すぎる。

守章 能の話と歌舞伎のシステムとしての劇場の話は、これまた全然違いますね。国立劇場の問題についても、歌舞伎をやる国立劇場と、能をやる国立劇場と、それから近現代の劇およびオペラ・バレエをやる国立劇場とでは、一緒にならないのではないですか。

保  共通点もあるのですよ。たとえば芸術監督をどのように劇場で使っていくかという共通点はある。国立能楽堂だって芸術監督がいたほうがいい。逆に言うと、芸術監督というのは、新国立劇場のように、 演出家だけを迎えるのではなく、もっと事務的な、あるいは企画力のある芸術監督というものを作って、それを劇場に配置すれば、天野先生がおっしゃったような研究的な試みもできる環境ができるでしょう。そういう意味では共通点があると思います。

守章 もちろん、そうですね。新国立劇場の芸術監督システムは、人選からして透明度がないし、私は絶望しています。早く滅びればいいと。

―― ではどうするかという点について、後継者とか、作品とか、演出家といった面でいかがでしょう。

保  いないのだから、しようがないじゃないですか(笑)。

――私は申し上げたように、テキスト。私の立場からは当然ですけれど、研究者もテキストに向き合っていないところがある。無意識のうちに逃げている。

保  そうですね。

―― いつからそういう状況になったのかという問題もありますけども、現代の能への接し方で一番欠けているのがそこだと私は思っています。それはたくさんある課題のうちの一つにしかすぎないとは思いますが。

保  内部崩壊をもたらした「何でもあり」というのは、伝統演劇の世界にだけ起きたのではなく、社会全体で起きている。法律に触れない限り何をやってもいいという世の中になってしまったわけです。それを改めていくためには、自分の中に知的な核をもたなければダメだと思うのですね。その知的なものの核をもつのは、観客も、スタッフもキャストもみんな同じだと思うのです。それをもつことが、内部崩壊を切り抜ける道だと思っています。目に見えるものだけを信じてるのはダメだと、私は思います。

守章 いみじくも古典と演劇と二つの言葉をお遣いになったけれど、古典演劇は、言葉の定義からして、そういう「核」がなければ、本来、成立しないはずです。しかし、日本では古典演劇と伝統演劇がごっちゃにされていて、あるときまで「伝統演劇」と言ったはずなのに、いつの間にか「古典芸能」と言って、NHKが率先して、自覚もなしに格上げしている。

 本当の意味で「古典とは何か」ということを、少なくとも学者および批評家は問い直す必要があるし、それとあわせて、現場、役者にしても、それを問い直す必要があるのではないでしょうか。つまり、これはいったい古典たり得るのかということですね。伝統たり得るのかということばかり言うわけで、だから伝書とか型付けを問題にする。しかし、それが問題なのではないですね、どっちにしても変わるのですから、古典として変わっていってるのか、あるいは変わったものが古典として受容されているのか、そうじゃないのかということのほうが、私は問題ではないかと思うのです。

 外国人が、われわれが論じていたような伝統演劇について考えるときは、あたかもそれは「万古不易(ばんこふえき)」のものであるかのように見たり考えたりしています。そういう幻想は日本人が与えている。文楽も、日本の古典だと言ってるからです。古典と伝統とは違うのですよということを、批評家なり理論家なりが、もっと声を大にして言わないといけないのではないですか。そして、それに応えるパフォーマーが出てこないといけないのではないでしょうか。

―― 単に古いから、それは古典だとは言えないということですね。

守章 言えないです。古典は規範です。

保  そうですね。

―― この対談もその規範ということで、首尾照応したように思います。何でもありの時代にその規範が必要であるということでしょうか。今日はありがとうございました。

(2016年8月16日 東京都内にて)

 

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渡辺保 (わたなべ・たもつ)
1936年、東京都生まれ。演劇評論家慶応義塾大学経済学部卒業後、東宝に入社、1965年『歌舞伎に女優を』で評論デビュー。企画室長を経て退社、多数の大学で教鞭をとる。2000年紫綬褒章受章。2009年旭日小綬章受賞。『女形の運命』で芸術選奨新人賞、『俳優の運命』で河竹賞、『忠臣蔵 もう一つの歴史感覚』で平林たい子賞および河竹賞、『娘道成寺』で読売文学賞、『四代目市川団十郎』で芸術選奨文部大臣賞、『昭和の名人豊竹山城少掾』で吉田秀和賞、『黙阿弥の明治維新』で読売文学賞を受賞。その他、多数の著書がある。
 
渡邊守章 (わたなべ・もりあき)

1933年生まれ。東京大学放送大学名誉教授。舞台芸術研究センター主任研究員。専門はフランス文学、表象文化論。演出家。著書に『越境する伝統』等。訳・注解にクローデル『繻子の靴』(上・下、毎日出版文化賞、日本翻訳文化賞、小西財団日仏翻訳文学式受賞)、バルト『ラシーヌ論』(読売文学賞受賞)、個人訳『マラルメ詩集』、クロード・レヴィ=ストロース『仮面の道』(共訳・改訂版)など。能ジャンクション『葵上』『當麻』、クローデルの詩による創作能『内濠十二景、あるいは〈二重の影〉』『薔薇の名―長谷寺の牡丹』を作・演出。『繻子の靴―四日間のスペイン芝居』を翻訳・演出。レジオン・ドヌール勲章シュバリエを受章。

 
聞き手:天野文雄 (あまの・ふみお)
1946年、東京生まれ。舞台芸術研究センター所長。大阪大学名誉教授。早稲田大学第一法学部卒、国学院大学大学院文学研究科博士課程修了。観世寿夫記念法政大学能楽賞、日本演劇学会河竹賞などを受賞。著書に『翁猿楽研究』(和泉書院)、『能に憑かれた権力者』(講談社)、『現代能楽講義』(大阪大学出版会)、『世阿弥がいた場所』(ぺりかん社)、「能苑逍遥〔上中下〕」(大阪大学出版会)、『能楽名作選(上下)』(KADOKAWA)、『能楽手帖」(角川ソフィア文庫)。 共編著に「能を読む」全四巻(角川学芸出版)など。
 
 
 

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